太田述正コラム#14882(2025.4.14)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その17)>(2025.7.10公開)
「こんな嘉靖帝の顔色をうかがい、青詞作りの特技を生かして長期政権を維持したのが厳嵩<(注42)>(げんすう)である。・・・
(注42)1480~1567年。「嘉靖20年(1541年)に嘉靖帝が西苑の万寿宮に移って朝議を放棄したことに乗じて政治を専断し、賄賂政治を展開した。嘉靖28年(1549年)以降は内閣首輔とされて政治の全権を握り、子の厳世蕃(中国語版)とともに大丞相・小丞相と呼ばれるほどの権勢を誇った。
だが、嘉靖帝が徐階を信任するに及んでその権勢は衰え、鄒応龍に弾劾されて致仕した。嘉靖44年(1565年)に厳世蕃が処刑されると、家財は没収、庶民に落とされ故郷で窮死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B5%A9
当初、・・・<その>実父を思う・・・大礼の議で嘉靖帝を支持した勢力には陽明学を奉じる者が多かった。・・・
問題は、人情が道理を超えて独り歩きを始め、欲望に転化して私利の追求へと発展したときである。・・・
厳嵩や嘉靖帝だけが特異であることを意味しない。
嘉靖末期に厳嵩に代わって政権を担当した陽明学者の徐階<(注43)>がよい例である。・・・
(注43)1503~1583年。「嘉靖31年(1552年)に青詞に巧みであるとして道教に熱中していた嘉靖帝から内閣大学士とされ、北虜南倭への対策で帝寵を得、同じく青詞に巧みであるとして登用され政治を壟断していた厳嵩・厳世蕃父子を弾劾して退けた。信賞必罰を旨として嘉靖帝の恣意的な処罰を制し、嘉靖帝の死を機に、弊政を刷新して大礼の議での刑罰を赦免した。内廷粛正を図ったために、高拱と宦官の結託を招いて隆慶2年(1568年)に致仕したが、正義派官僚の領袖として、朝野の人望を集めた。
郷里である松江には、二十四万畝といわれる江南で最大級の荘園を有していて、巡撫となった海瑞に指弾されたこともあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E9%9A%8E
⇒嘉靖年間には、皇帝も政治家/官僚のトップも阿Q化して、国事はなおざりにしつつ私利追求に狂奔するに至っていた、というわけです。(太田)
非常に興味深いことに、嘉靖年間になると私利追求の時代風潮に抗うよりは、その風潮をけん引する富裕層の奢侈に公利を求める奇抜な思想が登場する。・・・
陸楫<(注44)>(りくしゅう)という人物の見解である。・・・
(注44)1515~1552年。
https://baike.baidu.com/item/%E9%99%86%E6%A5%AB/2516149
陸楫の時代は農村と都市の格差が拡がり、破産農民の都市への流入が今までにもまして顕著となっていた。
彼の主張はそうした事態に対するある種の警告でもあった。」(119~120、123)
⇒時代は下りますが、「『百科全書』(1751〜1772)の項目「奢侈」を担当したサン=ランベール(1716〜1803)は、・・・批判派、擁護派を問わず、奢侈に関する主張のうち代表的なものだけを取り上げている」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=83b25a0ba4ffda98154edbff02ed75de12c79f465e05a2716fd2c1eb1e646974JmltdHM9MTc0NDU4ODgwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=0eccea61-2d16-6d95-2376-ffc92cfc6c6f&psq=%e5%a5%a2%e4%be%88%e5%a5%a8%e5%8a%b1%e8%ab%96&u=a1aHR0cHM6Ly9zaGlyYXl1cmktdS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvNDgxL2ZpbGVzL3NrMDEwNTYwNC5wZGY&ntb=1
ところ、さして奇抜とも思えないところの、陸楫的な主張ですが、そういった主張に賛成の論者や反対の論者がその後出現した気配がない点に、(大昔の春秋戦国時代の頃を頂点として、)支那がいかに知的に、堕落、というか、麻痺、してしまっていたかが端的に表れています。(太田)
(続く)