太田述正コラム#14884(2025.4.15)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その18)>(2025.7.11公開)

 「・・・大礼問題で揺れる嘉靖2年(1523)4月、・・・世にいう「寧波の乱(寧波争貢事件)」<(注45)が起き>る。・・・

 (注45)「本来の勘合貿易では明から日本国王として遇された足利将軍が遣明船を派遣していたが、応仁の乱で将軍権力が衰え、細川政元ついで細川高国・大内義興らが畿内の権力を握ると、日明貿易船も堺商人と結んだ細川家と博多商人と結んだ大内家の2家が主宰するようになっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%B4%A0%E5%8D%BF
 「大永3年(1523年)、大内義興が謙道宗設(けんどうそうせつ)を正使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡瑞佐(らんこうずいさ)を正使、宋素卿(朱縞)を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣する。
 同年4月、寧波には先に大内方の遣明船が入港しており、細川方には不利であったが、細川方の副使の宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。これに激怒した大内方は細川方を襲撃して遣明船を焼き払うも、明の官憲が細川方を支援したために大内方の矛先は彼らにも向いた。この結果、謙道宗設により鸞岡瑞佐は殺され、更に紹興城へ逃れた宋素卿らを追い、明の役人をも殺害する事件が起こる。
 事件は外交問題となり、宋素卿は投獄されて獄死した。また、対日感情の悪化から享禄2年(1529年)には市舶司大監も廃止される。
 遣明船による貿易は、天文5年(1536年)には大内義興の子の大内義隆が再開しており、博多商人たちは莫大な富を得る。天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で滅亡するまで続くが、この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1

 <これ>を契機に日明関係はしばらく中断し、・・・交流が再開するのは嘉靖19年(1540)のことである。
 その9年後の嘉靖28年(1549)の入明を最後に、大内氏の滅亡により正式な日明貿易は完全に消滅する。・・・

⇒相手が暴利を得られる朝貢貿易を明もまた行っていたことそのものの問題、や、日本が戦国時代で中央権力が不在状態となっていた問題、はさておき、明の官僚達が阿Q化により腐敗し切っていたことが直接的な原因で寧波の乱が起こった、ということでしょう。(太田)

 石見銀山<(注46)>の発見<と>、朝鮮からの灰吹き法<(注47)>という銀の精錬法の導入と相俟って、日本での産銀量が爆発的に増大し<、>・・・この銀を元手に多くの日本人が双嶼<(注47)>に向かい、・・・双方にプラスの日中間の密貿易<を行い始めた>。」(123)

 (注46)「大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神屋寿禎(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神谷、名については寿貞・寿亭とも表記される)であるとされている。・・・
 1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から[朝鮮から招いた]宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により精錬された。
 また、・・・明では、当時銅銭から銀(銀錠・馬蹄銀)を主体とした貨幣体系に変換されつつあったが、経済の発展と共に銀の需要が高まり、日本からも銀の輸入が行われたことで、1540年代以降日本国内においても銀の需要が高まっていった。このことも石見銀山の発展の要因として考えられている。・・・
 毛利氏が流浪の足利義昭を奉じて織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この大森銀山に支えられた経済力があったのである。
 その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B1%8B%E5%AF%BF%E7%A6%8E ([]内)
 (注47)「国内で確認されている銀の精錬は、16世紀の「石見銀山」・・・が最も古い例とされていたが、 これらは7世紀後半となり、国内最古の銀の精錬となる。・・・
 日本国内の鉱石から製錬された粗銅は金銀を含んでいたが、15世紀の日本にはこれを銅から分離する技術が無かったため、古くからこの技術をもつ明や技術が伝来していた李氏朝鮮といった大陸諸国の商人は日本から購入した粗銅から金や銀を取り出す事で差益を得ていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95
 (注47)そうしょ。「16世紀中葉に・・・浙江省沖の舟山群島にあった港。当時の国際的な密貿易拠点、倭寇の根拠地として著名である。16世紀当時(明王朝統治下)は寧波府定海県の管轄。ポルトガル人は双嶼を指してリャンポー(Liampó、「寧波」の福建語発音)と呼んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%B6%BC

⇒朝鮮半島の技術者が伝えた灰吹き法によって精錬された銀も資金として秀吉の朝鮮出兵が行われた、というわけです。(太田)

(続く)