太田述正コラム#14886(2025.4.16)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その19)>(2025.7.12公開)
「・・・嘉靖29年(1550)8月、アルタン<(注48)>は長城を越えて北京の城下に達し、周辺の村落を手当たり次第に掠奪した。<(注49)>
(注48)1508~1582年。「モンゴル帝国(北元)を支配したハーン<で、>[モンゴル・・・再統一<を>成し遂げ<た、>]ダヤン・ハーンの孫(在位:1551<~>1582年)。・・・
庚戌の変<(下述)の翌年、>・・・正統ハーン位に推戴され、即位した<もの。>・・・
チベット方面に進出した際、仏教に帰依している。のちに青海に迎華寺を建立し、ダライ・ラマ3世を迎えた。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広まり、アルタンの曾孫はダライ・ラマ4世となっている。・・・
<その一方で、>亡命漢人の官僚、白蓮教徒、さらに明から生活苦で逃亡してきた農民などを積極的に受け入れ、彼らの文化を受け入れてフフホト(内モンゴル自治区の首都)など多くの都市を建設<もしてい>る<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E6%88%8C%E3%81%AE%E5%A4%89 ([]内)
(注49)アルタンは、「北京を包囲、朝貢と互市を要求した。・・・この際は、明朝に脅威を与えただけで包囲を解いて立ち去ったが、翌1551年に再び交易を求めた。この要求を受けて大同で馬市が設けられ、モンゴルが提供した馬と絹織物とが交換された。しかし、まもなく明朝との関係が悪化して馬市が閉鎖されたため、両勢力の抗争は激化することになった。こうしたアルタン・ハーンの活動は明にとって大きな脅威であり、長城の強化事業が行われた。」(上掲)
この間、恐慌に陥った明政府はなす術もなく傍観するだけで、アルタンは8日間北京を包囲したのち、多くの男女や家畜をさらって悠々と引き上げていった。・・・
北からはモンゴルの侵入、南では倭寇の跳梁という16世紀中葉の南北の外患を、当時「北虜南倭」と称して<明の>人々は恐れた。
一見して無関係のように見えるこの南北の現象も、銀を仲立ちとして生じた辺境での交易ブームの歪な所産であることはいうまでもない。
明がそのブームに強引楔を打ち込み物資の流れを堰き止めたとき、彼らは異議申し立てをして辺境を騒がしたのである。
北虜と南倭は決して無関係な存在ではなかったわけだ。・・・」(134~136)
⇒そもそも、明は、軍事力整備・維持を怠ったこと、と、朝貢「貿易」のみに固執したこと、が問題であった上に、これまで申し上げてきたことと趣旨的には繰り返しになるけれど、明が遠交近攻策をとらなかったこと、すなわち、南倭中の日本と積極的に手を結んで北虜にあたろうとせず、逆に、近交遠攻策をとった(注50)ことが、明の致命傷となるのです。(太田)
(注50)「<モンゴルとの間では、>1571年に<最終的>合意に至り、明・・・はアルタン・ハーンを順義王に封じ、北辺に11の市を開いて貿易することを認めた(俺答封貢)。これ以降、明と<モンゴル>は正式な君臣関係と貿易関係を保ち、明の北部・西部辺境は安定期を迎えた。・・・
後期倭寇は、日本人ばかりによるものではなく、むしろ王直のような<支那>人が主であった<が、>・・・名将<達>の活躍により、<明は、>嘉靖年間の終わりには倭寇<を>下火に<することに成功し>た。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%99%9C%E5%8D%97%E5%80%AD
(続く)