太田述正コラム#14888(2025.4.17)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その20)>(2025.7.13公開)

 「1557年(嘉靖36)にマカオの居住権を得たポルトガルは、マニラ開港と同じ1571年にマニラ–長崎航路を開拓し、中国産の生糸や絹織物等を日本で販売しては銀を持ち帰った。
 当時長崎から毎年5、60万両の銀がマカオに搬出されたという。
 さらにマカオ–マニラ間の貿易も始まり、スペイン・ポルトガルのアジア貿易によって中国も世界経済に包含されることになる。・・・
 体制再建に向けた劇的な取り組みが、16世紀後半に集中的に試みられた。
 ただし、それは首輔大学士の張居正<(注51)>(1525~82)という強烈な個性によって主導されたため、彼の退場とともに改革の動きは頓挫し、再び明末の波長に後戻りしてしまう。・・・

 (注51)「張居正の功績として最大のものとされる<のは、>全国的な丈量の実施である。
 丈量とは日本で言えば検地のことである。当時、地方に強い勢力を張っていた郷紳勢力は所有地の量をごまかして報告し、税逃れをすることが多かったが、張居正はこれに断固として挑み、大量の隠し田を摘発した。これにより全国の田土は300万頃も増えた。またこれに伴い以前よりそれまで行われつつあった一条鞭法という新しい税制の施行も拡大した。
 それ以外にも無用な工事・官職の撤廃。氾濫した黄河の治水などに精力的に取り組んだ。これにより窮乏の縁にあった明の財政は一息つくことと成る。万暦の初めに歳入が200万両であったのが300万から400万に増加し、倉庫には10年分の食料が積み上げられ、余剰金は400万両を越えたという。
 一方で言論弾圧・既得権の侵害などにより、朝野には張居正に対する不満が満ちた。・・・
 死後すぐに、親の服喪を欠かしたことなどを理由とした弾劾が相次ぎ、万暦11年(1583年)には封号と諡を剥奪された上、死後であるが死刑扱いとされ、家産は全て没収された。長男の張敬修は自殺に追い込まれ、それ以外の家族は辺境に送られた。
 張居正死後、万暦帝は政務を放棄して過度の奢侈に走り、張居正が積み上げた蓄積は全て消えてしまった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%B1%85%E6%AD%A3 
 「徴税合理化の方法として租税,力役の銀納化を進めるとともに,課税対象として土地を最も重要視する傾向が強められ<、>土地所有額を課税の基準とするとともに,税,役の雑多な項目を一本にまとめ,銀に換算して課税する一条鞭法の改革が生みだされたのである。
 この税法は16世紀中ごろから地方的に実施されたが,各地の経済発展の状況を反映して,華中が最も早く<、次いで>華南<で実施され>[、華北では反対が多かったものの万暦帝期の1580年代に宰相張居正のもとで全国に広まった]。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%9E%AD%E6%B3%95-31317
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%9E%AD%E6%B3%95 ([]内)

⇒死後の張居正及びその一族への万暦帝の仕打ちは、自身ひいては明の自傷行為に等しかったと言えるでしょう。(太田)

 <かかる背景の下、>万暦20年(1592)2月の寧夏のモンゴル人将軍ボバイの反乱<(注52)>、同年4月に始まる日本の豊臣秀吉の朝鮮侵略・・・、そして25年の貴州の士官(少数民族の首長に与えた官職)揚応竜の反乱である。

 (注52)哱拝の乱(ボハイのらん)。「明代・・・の寧夏で起きた、副総兵の哱拝(ボハイ)による反乱。寧夏兵変・寧夏の役とも呼ばれ、困窮した家丁兵士側の自主的蜂起の要素もあった。・・・
 哱拝は投降したモンゴル人であったが、明軍組織の中で頭角を現し、副総兵まで出世していた。哱拝は1589年(万暦17年)には60歳であり、引退して息子の哱承恩に都指揮使を継がせていたが、自身も家丁2,000を持っていたため、党馨より危険視され、勢力抑制のために無茶な任務を与えられるなど恨みを買った。官軍家丁が蜂起すると、哱拝一族も同調して立ち上がることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B1%E6%8B%9D%E3%81%AE%E4%B9%B1
 寧夏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E5%A4%8F%E5%9B%9E%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:China_Ningxia.svg

 世にいう「万暦の三大征」の軍事費に<よって、>・・・明の国力は決定的に殺がれてしまった。」(146、158)

⇒秀吉による朝鮮出兵は、万暦帝による明の超の付く失政による財政や治安等の悪化を踏まえて計画を練らせた上で、ボハイの乱直後のタイミングを狙って開始させたものである、と、私は見ています。(太田)

(続く)