太田述正コラム#14890(2025.4.18)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その21)>(2025.7.14公開)

 「・・・同じ時期、華中・華南の農村では抗租の風潮が次第に広がり、佃戸<(注53)>の小作料不払い闘争が顕在化する。・・・

 (注53)でんこ。「唐では均田制が行われ、全ての農民に均等に土地が割り付けられ、同じように税負担をするという形式が行われ、大土地所有は官僚に与えられる官人永業田以外は公認されなかった(実際には皇族・貴族・寺院などが荘園を所有していた)。唐中期に均田制が崩壊し、両税法が成立すると事実上大土地所有が公認されたことになり、荘園が増大した。またこれら大土地所有者には所有地を小作地として貸し出す場合も多く、荘戸・荘客などと呼ばれる小作人がこれを耕作した。・・・
 唐初期は前述の貴族層などが荘園の主な所有者であったが、経済の発達と共に新たな富商・豪農たちが荘園経営の新たな担い手となった。これが五代・北宋にかけて形勢戸と呼ばれる新たな層の淵源となり、形勢戸がその中から科挙合格者を出して官僚特権を得ることで新たな支配者階層士大夫を生み出すことになった。
 宋代における地主と佃戸の関係、その存在形態については隷属的な関係とする周藤吉之と自由な経済関係とする宮崎市定の論などを初めとして様々な意見が提出されており統一的な見解を得ることは難しい<。>・・・
 元明清においても佃戸は存在していた。宋代においては佃戸は地主に対して差別的な地位に置かれていたが、明代にはそれもなくなった。明には自立傾向を強め、小作料減免を求めて抗租運動を起こすようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E6%88%B8

⇒かつては、唐における均田制の崩壊過程的な過程を日本の班田収授制も辿ったとされてきたけれど、そもそも、最初から班田収授制は絵に描いた餅だった、というのが現在通説になりつつあるというのが私見である(コラム#省略)わけです。(太田)

 こんな世相の中でも万暦帝はまったく政治に意欲を示さず、彼の48年という長い治世の後半はほとんど後宮にこもってサボタージュを決め込むありさまであった。
 「明の亡ぶは実は神宗に亡ぶ」とは『明史』の評語だが、皇帝の無策と朝野の混乱を見れば、まさにいい得て妙としかいいようがない。・・・
 都市では・・・新興の諸産業に従事する雇用労働者や商人などの「市民」「市人」と称される都市住民が増大し、「郷紳<(注54)>の横」への反発から郷紳の邸宅を焼き討ちすることもあった。・・・

 (注54)「明代後半期から<辛亥>革命に至る時期の<支那>における地方の支配層。郷紳は田主(でん<しゅ>)あるいは業主(ぎよう<しゅ>)と呼ばれた地主の一員であったが,その中でも日常的に地域社会の動向を左右する実力者であり,2,3年の任期で去っていく地方官にまさる影響力をもっていた。
 朝廷に出仕する官僚の着用する大帯を紳(しん)といい,この大帯にメモ用の板(笏(こつ))をさしはさむことを縉(しん)と呼んだが,これに由来する縉紳(しんしん)という語は秦・漢以前から官僚の雅称として用いられてきた。しかし,紳の字を,地域社会を意味する郷と組みあわせた郷紳という語が普及し,退職,請暇,待機などで出身地に居住している官僚や出身地に居宅を置いている現職の官僚を表現するようになったのは,16世紀半ばすぎの万暦年間のことである。明初以来,各府・州・県の学校制度が完備され,ここへの入学が官僚選抜のための科挙試験の基礎資格として必須になったが,これらの学校の学生は,中央の国立学校である国士監学生の資格保持者とともに生員と総称され,彼らを底辺として,儒教的教養を保持した知識人,いわゆる読書人の厚い層が地域社会に形成されていた。これら読書人の中で,郷紳は,清代中期までは,衿士(きんし)あるいは士人(しじん)という雅称で呼ばれる生員とははっきり区別され,地方官の側から地方の世論の形成者,行政の実質的支持者として重視されてきた。省の科挙試験の合格者で任官資格をもつ挙人(<きょ>じん)は両者の中間の位置にあったが,どちらかといえば郷紳に近い。
 明代後半期以来,商品生産と貨幣経済発展は,農村内部に市場町としての鎮を発達させ,鎮をなかだちとして,県城(県都)を中心とする県も単なる行政区画にとどまらず,経済的・社会的に緊密な関係をもつ単位としての性格を帯びてきた。宋代には首都や大都市に住むことを好んだ官僚層は,明代には,このような変化の中で,出身の県に本拠を置き,出仕の期間以外はここに居住することをならわしとするようになった。官僚は,歴代のどの王朝国家においても,莫大な労力と金品の負担を必要とする国家の徭役を免除されていたが,明代後半期の郷紳は,この特権を最大限に活用し,土地所有を拡大して小作料収入を増大させ,徭役負担を忌避して庇護を求める多数の良民を奴僕として駆使しながら商業・高利貸活動にも進出した。江南デルタなど南方の各県では,莫大な富を集積した郷紳と,過重な徭役のみならず,王朝国家による臨時の租税や諸公課の増徴に苦しむ民衆とのあいだの矛盾は,明末において非常に深刻なものとなった。郷紳層自体の内部にも,東林派など,こうした矛盾の打開を目ざす一群の人々が現れたが,郷紳の利殖行為と国家収奪に対する民衆の抵抗は非常に強まり,生員層もしばしばこれらの抵抗運動に参加した。当時,各都市で起こった民変はこの運動の典型である。明末・清初に,都市・農村を通じて広く起こった奴変(ぬへん),農村での抗租暴動も民衆の反郷紳運動の一環である。」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%B7%E7%B4%B3-52729

ここで注意すべきは、秩序の動揺は上位者の分の逸脱、下位者の反抗といった対立の図式だけでは捉え切れないことだ。
 社会経済の発展は、一方で上位者と下位者の境界を不分明なものにすることになった。
 それを端的に示すのが中国社会を上下二層に分かつ「士庶の別」の溶解である。・・・
 海外から流入する大量の銀で好景気に沸いた明末には、空前の出版ブームが到来して、多種多様の書籍が営利目的に盛んに刊行された。・・・
 士<の中で>・・・科挙を諦め<て>・・・出版業や著述業に専念したり、詩文・書画の才能で高級官僚の食客になったり、あるいは中央高官や地方長官の幕僚になったり、時には政治の裏面で官僚に代わって陰謀術策をめぐらし暗躍したりした。
 士の正道から外れたこうした知識人の群れを、当時世間では「山人(さんじん)」と称したが、万暦年間には山人の横行が政治問題化して、都ではたびたび取締りが行われている。」(158、161、163、165)

⇒日本では、支那で(文民たる)郷紳が出現する前から、小作農を含む農民の上には(軍人兼文民たる)武士がおり、概ね人間主義的統治の下、「上位者の分の逸脱、下位者の反抗」は少なく、従ってまた、「士庶の別」の溶解ならぬ「士農の別」の溶解もまた、なかった、と、言えるでしょう。(太田)

(続く)