太田述正コラム#14972(2025.5.29)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その29)>(2025.8.24公開)

 補足すれば、領土拡張したところで、北夷は騎馬遊牧民なので、戦争の時に騎馬部隊用に徴用できるだけなのに対し、西戎には、農耕民もいることから兵士としての徴用に加えて食糧も供出させることができる、というメリットがある。
 なお、奥地であるところの、揚子江の上流に巴、その更に上流の四川盆地に蜀、の2国があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg 前掲
が、楚にしても秦にしても、互いの妨害さえなければ、その気になれば、この2国は孤立していることから、征服することが可能であると判断していたと思われるところ、恐らく、楚側は、北方の中原諸国を楚と秦がそれぞれ削っていくことは当然ながら、それ以外では自身はもっぱら東方へと領土拡張をしていくことにするので、この2国は秦にまかせる、的な了解を秦側との間で交わしたのではなかろうか。
 で、かかる、楚、秦両国の合意を踏まえて、荘王(在位:BC614~BC591年)は、秦の(穆公の子の)康公(在位:BC620~BC609年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
またはその子の共公(在位:BC608~BC604年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
もしくはその子の桓公(在位:BC603~BC577年)、のいずれか、このうちの最後の秦の桓公の時の「桓公10年(前594年)、楚の荘王は鄭を従え、・・・黄河のほとり<の>・・・<邲(ひつ)の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
で>北の晋軍<・・当時の晋公は景公(在位:BC600~BC581年)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%85%AC_(%E6%99%8B) >
を・・・破った。この時、<荘王>は覇者<的存在>・・・となった。桓公15年(前589年)11月、魯・楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の12カ国が蜀の地(現在の四川省)で会合し、秦からは右大夫の説がこれに出席した。桓公22年(前582年)11月、秦は白狄とともに晋を攻撃した。桓公24年(前580年)冬、晋の厲公が立ち、桓公と黄河をはさんで互いに盟を結んだが、帰国するなり桓公はこれを反古にした。桓公26年(前578年)5月、晋が諸侯を率いて秦を攻撃し、秦は敗走した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
という諸事蹟に照らすと、(念のためもう一度繰り返すが、楚の荘王は、)この中の最後の秦の桓公相手に、BC594年に自分が覇者的存在となった直後に話をもちかけ、楚秦ステルス連衡を成立させ、その証として、秦の(恐らくは、桓公自身の)公女を自分の嫡男の正室にもらいうけた、と、見たい。
 但し、はっきりしているのは、「荘王の子<の>・・・共王<(在位:BC591~BC560年)の>・・・妃<は>秦<出身であることだけだが・・。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 この荘王がBC591年に亡くなると、その子である楚の共王は、秦と結んだばかりのステルス連衡を、目立たない姿にとどめながらも形あるものにすべく、BC589年に、魯・楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の12カ国の会合を秦と共同開催したのだろう、とも。
 当然ながら、楚の共王には、秦と戦ったり対立したりした形跡は全くない。(上掲)
 この「共王の子<の>・・・<楚の>康王<(在位:BC559~BC545年)>」についても同様だ。
 なお、共王の妃は不明だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 そして、その「康王の子<の>・・・郟敖(こうごう)<(在位:BC544~BC541年)>」についても、妃が不明であることを含め、同様だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%9F%E6%95%96 
 この「共王の次男<の>・・・霊王<(在位:BC541~BC529年)は、>・・・郟敖を殺害して自ら王として即位した」人物であるところ、その妃については、秦ではなく晋の公女と思われる者がいるけれど、秦と戦ったり対立したりした形跡は、やはりない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「<今度は、霊王の更に弟である>訾敖(しごう)<(在位:BC529)が、>「郟敖が・・・殺害されると・・・晋に亡命し<ていたのだが、>霊王12年(紀元前529年)4月、晋から帰国し・・・兄の霊王を討つべく、国都の郢を攻撃した。<実は、>熊比<が>楚王を称し・・・<したのを受け、>5月、霊王<は>自殺<してい>た<というのに、この>新王訾敖・・・は霊王の死の知らせを聞いて<いなかったことから、霊王の>・・・殺害<を>勧め<られても、>「酷いことはできない」と言って聞き入れな<いままであったところ、>ほどなく国都で「王入矣(王が入城なさった)」という流言があり、・・・霊王の帰還と国人の離反を信じ込んだ訾敖・・・は自殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BE%E6%95%96
 この訾敖の「妃」は不明ながら、そもそもそんな暇などなかっただろうが、訾敖が関わった対外的な対立も戦争も記録されていない。(上掲)

⇒荘王がおぜん立てしたと私が見るに至っているところの、第一次楚秦ステルス連衡、は、当初の一回切りの秦公女の楚への受け入れくらいの連衡象徴行為しか伴っていないにもかかわらず、しかも、その後、上述のように楚で王位継承を巡る混乱が続いたにもかかわらず、そういったことに秦が付け入ることなどなく、この時あたりまで、60年超にわたる、楚秦間の平和が、楚秦以外の中原諸国や呉越の疑惑、懸念を招かない形で維持された、ということに、注意を喚起しておきたい。(太田)

(続く)