太田述正コラム#14974(2025.5.30)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その30)>(2025.8.25公開)
さて、この「<訾敖の弟は、巧妙に>訾敖・・・を自害へと追い込み、・・・自らが・・・平王<(在位:BC529~BC516年)>・・・として即位する。
平王6年(紀元前523年)、・・・平王は太子建の妃を秦から迎えるため、少傅の費無忌を秦に遣わした。
⇒共王の子の3兄弟の間の、より大きくとらえれば、共王の子の4兄弟間の、王位継承を巡る混乱を受け、平王が、秦とのステルス連衡を改めて確認する形で固めたいと考え、同じ思いの秦も、それに積極的に応じた、ということだろう。(太田)
しかし費無忌は秦の公女伯嬴の美しさを見て、この公女を平王自身が娶るよう進言した。平王も公女の美しさを気に入り、自らの側室としてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
「昭王<は、>・・・平王と<この>伯嬴のあいだの子として生まれた。平王6年(紀元前523年)、太子建が宋に亡命すると、太子に立てられた。平王13年(紀元前516年)、平王が薨去すると、楚王として即位した。昭王元年(紀元前515年)、楚人に憎まれていた費無忌を粛清して人気を取ったが、東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった。
昭王10年(紀元前506年)、柏挙の戦いで楚軍は呉軍に大敗し、呉軍が都の郢に攻め入ったので、昭王は郢を脱出して随に逃れた。楚の使臣申包胥は秦を訪れ、哀公に救援を求めたが、哀公は当初これに応じなかった。そのため、申包胥は秦の宮廷の庭で7日7晩にわたって泣き続けた。哀公はその忠誠心に感じ入り、ついに楚に援軍を出した。これにより楚は呉軍の撃退に成功し、昭王は郢に戻ることができた。・・・
<その後、>楚の復興に務めた。同時に呉と対立していた越王の勾践と同盟し、勾践の娘を<二番目の>妻に迎えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
ちなみに、「柏挙<の>戦い<の後、>・・・呉王闔閭は郢の後宮にいた女性たちを手籠めにした。順番が伯嬴に回ってくると、伯嬴は刃を持って自殺の覚悟を示し、君王の節義を説いたので、闔閭は恥じ入って退出した。伯嬴はその乳母とともに宮中の門を閉ざし、衛兵にも武装解除させなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%AC%B4
⇒楚の平王の無軌道ぶりは、どうやら多くの楚人に共通の性向であった可能性がある。
他方、伯嬴の毅然たる姿勢もまた秦人共通のものだったのではなかろうか。
もとより、闔閭が伯嬴の凌辱を思いとどまったのは、秦を敵に回してしまうことを恐れたが故だろう。
この伯嬴とその父たる秦の哀公の連携プレイが楚を救ったわけであり、楚越の同盟も、昭王と母伯嬴というか秦との連携プレイであると想像され、楚秦ステルス連衡の再確認・強化は、大きな成果を挙げたわけだ。(太田)
「昭王の子<の>・・・恵王<(在位:BC489~BC432年)>・・母<は>越姫<だが、その即位の経緯は下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%A7%AB >
・・<は、>恵王10年(紀元前479年)、白公勝<(太子建の子)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%85%AC%E8%83%9C >
<に>反乱を起こ<され>た。白公勝は子西<(公子申。昭王の異母兄)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%A5%BF_(%E4%BB%A4%E5%B0%B9) >
と子期<(公子結。昭王の兄弟)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%90%E7%BB%93_(%E6%A5%9A%E5%9B%BD)>
を殺し、恵王を拉致して<軟禁したが、>恵王の従者・・・が王を背負って昭王夫人宮に脱出した。<やがて、恵王の側が反撃を始め>ると、白公勝は山に逃れて自ら縊死した。・・・
⇒私は、この時点で伯嬴が存命であったのではないかと推測している。
彼女も昭王夫人宮に住んでいたか、そこに居を移し、自分の孫である楚の平王の命を救うことで、楚秦ステルス連衡の瓦解を防いだのではないか、と。
白公勝は、かつての闔閭同様、伯嬴の背後の秦を恐れ、彼女の庇護下の平王に手出しができなかったのではないか、と。(太田)
(続く)