太田述正コラム#14978(2025.6.1)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その32)>(2025.8.27公開)
この間の、楚の各王の姻戚関係が殆ど明らかではないが、楚秦の概ね非ステルス連衡が機能し続けていたことが見て取れる。(太田)
「悼王の子<の>・・・粛王<(在位:BC380~BC370年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E7%8E%8B
「<その弟の>宣王<(在位:BC370~BC340年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
「<その子の>威王<(在位:BC339~BC329年)>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A) (太田)
⇒この間↑についてもまた同様だ。
それが打って変わって、秦の恵文王(BC356~BC311年。在位:BC337~BC311年)・・但し、恵文君14年(紀元前324年)までは恵文公・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
の正室で恵文王の次の武王の母は『史記集解』によると楚の出身で魏姓・・但し、一説に姫姓魏氏・・であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E5%90%8E_(%E7%A7%A6)
また、恵文王の側室で武王の次の昭襄王の母は楚の公女の羋八子であり、「昭襄王の治世において執政した相国の魏冄は<彼女の>異父同母弟で、左丞相の華陽君羋戎は<彼女の>同父母弟である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
ことが「明らか」にされるに至る。
私見は、楚の宣王(在位:BC369~BC340年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
が、秦の孝公(在位:BC361~BC338年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
と調整した上で、まず、楚出身の魏姓の、従って羋姓である公族にはあたらない、才色兼備の女性を、太子たる、後の<秦の>恵文王、の夫人に送り込んだ上で、その他の諸国の警戒心が高まっていないことが見極められた時点で、今度は、楚の王とは遠縁だが羋姓の公族であるところのやはり才色兼備の女性を側室として、そのお付き名目の他のやはり遠縁の公族達と共に、秦に送り込むことによって、楚秦半公然ステルス連衡の紐帯強化を図るように、楚の宣王と秦の孝公が約束を取り交わしていた可能性が大である、というものだ。
そもそも、大昔における私の言うところの楚の荘王と秦の桓公との間のステルス連衡「締結」には、天下統一直前までに両公室の融合合体を図る含意があった可能性が高いと思っている。
だから、早晩、更に次のステップとして、楚からその公女を秦の太子に正室として送り込むことも予定されていたのではなかろうか。
また、考公の太子(後の恵文公)が王号を唱えることにも楚の宣王は了解していたと想像しているが、こういった秦と楚の動きに対する警戒感が一挙に高まって、その他の全諸国による恒常的な反秦楚合従体制が構築されることを回避すべく、太子の代以降のしかるべき時期から、秦と楚が間歇的戦争状態を演じる必要があることについても相互に了解された、とも。(太田)
上出の約束に基づき、「<楚の、>威王<の子の、従って宣王の孫の>・・・懐王<(?~BC296年。在位:BC328~BC299年)、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%8E%8B
「が即位すると、・・・<恐らく、威王の遺言に従って、>このとき16歳だった・・・楚・・・の<懐王は、自分とは遠縁だが羋姓の公女の羋八子を楚から>秦に嫁<がせ>、秦<の>惠文王嬴驷・・・の妃<、但し側室、にし>た。彼女は一女三男をもうけ<ることとなり、>17歳(紀元前328年)のときに長女の嬴氏を産み、後に嬴氏は燕昭王の后となり<、>20歳(紀元前325年)<のとき>長男の嬴稷を出産し、彼は後に<予定に反して>秦昭襄王となり<、更に、>次男の嬴悝は高陵君に、末子の嬴市は泾陽君に封じられ<ることになる>。」
https://note.com/oversea_u/n/n896ac4803cb1
「秦<の方>は<、>商鞅の改革により、大幅に国力を増強しており、周辺諸国はこれを恐れ、[恵文王四年(紀元前334年)に恵文王に対して]本来なら主筋であるはずの周から贈り物が贈られるほどであ[り、恵文王は、同年、]新たな官職として相邦(のちの相国)を設立し、樛斿[(きょうゆう)]をその地位に就けた。
恵文王は、次に、「張儀を登用して樛斿の次の相国(相邦)に任じ、度々魏・斉・楚などを討ち(岸門の役、龍賈の役)、 恵文君14年(紀元前324年)に王号を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%9B%E6%96%BF ([]内)
⇒このように、楚宣王と秦孝公の合意は着実に履行されていった、と見るわけだ。
(なお、上掲引用中の「魏・斉・楚などを討ち」のうち、「楚」は誤りだ。
BC338年の岸門の役にも、[BC332~330年の]龍賈の役にも、楚は一切関わっていない
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%A5%BF%E4%B9%8B%E6%88%98_(%E6%88%98%E5%9B%BD)
からだ。
ちなみに、岸門は現在の山西省河津県南の地名であり(上掲)、龍賈は魏の将軍の名前だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%B3%88 ([]内も)←龍賈(りゅうか))(太田)
(続く)