太田述正コラム#14980(2025.6.2)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その33)>(2025.8.28公開)
「恵文王3年(紀元前322年)、張儀は秦と魏で連衡して韓を共に攻めるため、魏の恵王に遊説し魏で宰相の地位に就いた。
恵文王6年(紀元前319年)、張儀が罷免され魏を追放されたのち、恵文王8年(紀元前317年)に秦に戻り相国の地位に再度就くまでは中山国の楽池が秦の相国を務めた。
秦を畏れた諸国は恵文王7年(紀元前318年)に韓・趙・魏・燕・楚の五カ国で連合軍を作り、秦に攻め込んできたが、[<その>合従軍の総大将<を>楚の懐王が努めた<ことになってはいるものの、>・・・合従軍の五国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の三国のみであっ<て、>合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された<挙句、>紀元前317年、・・・秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃し<て>・・・大敗させ、・・・合従軍の8万2千人<を>斬首<して終わっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BD%E8%B0%B7%E9%96%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D318%E5%B9%B4)]
(函谷関の戦い)。
⇒楚の懐王が恰好だけつけただけでサボタージュをすることによって、楚は、事実上秦と戦わなかったばかりか、韓趙魏を扇動して秦と戦わせ、三晋に大ダメージを与えることができたわけだ。
これぞ、楚秦ステルス連衡の真骨頂である、と、言いたいところだ。(太田)
恵文王9年(紀元前316年)、<秦は、>秦の領域である関中の後ろに大きく広がる古蜀(巴蜀)を併合する(秦滅巴蜀の戦い)。この地域には三星堆文化を元とした独自の文化を持った国が栄えており、周に対して服属していた。<恵文王が>征蜀の前に張儀と司馬錯<(しばさく)>に対して蜀を取るべきかどうかを諮問したところ、張儀はこれに反対して国の中央である周を取るべきと主張し、司馬錯は蜀を取って後背地を得るべきだと主張した。恵文王は司馬錯の意見を採用して蜀を取り、この事で、秦は大きな穀倉地帯を得、更に長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6) 前掲
⇒この時に、楚が何等妨害行動を採っていないことが楚秦ステルス連衡存在の裏付け材料の一つだ。
なお、張儀が反対したのは当然であり、雇われ相邦の彼は恐らく楚秦ステルス連衡のことを全く聞かされておらず、巴蜀併合を行おうとすれば楚が介入してきて楚秦間の全面戦争になるのは必至と見て、まだそんな全面戦争はできないと思ったのだろう。
他方、司馬錯は司馬遷の八世の祖にあたる秦人たる将軍であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%8C%AF
うすうす楚秦ステルス連衡の存在に感づいていた可能性がある。
いずれにせよ、この時、周を打倒するオプションが議論されたことは、秦が、かつての周に取って代わる形での天下統一の意思を表明したに等しく、どんなかん口令を敷いても諸国が知るところになったであろうことから、秦と楚の一体性を積極的に隠蔽する必要性がこの時点で一挙に高まったと言えよう。(太田)
三 楚秦ステルス連衡破綻欺騙期
秦がまだ恵文王であった「紀元前313年、秦の張儀が楚の懐王と面会し、秦が商於の地方600里を割譲することを条件に、楚に斉と断交するよう要請した。懐王はこの条件を受け入れ、斉との同盟を破棄した。しかし懐王が一将軍を派遣して土地を受け取りに行かせると、張儀は商於6里を割譲するのが条件だったと言い張った。懐王は秦を攻撃する軍を発した。
紀元前312年春、魏章率いる秦軍と屈匄率いる楚軍が丹陽で戦い、秦軍は楚軍を撃破した。楚の武装した兵士80000人が斬られ、楚の大将軍の屈匄や裨将軍の逢侯丑ら70人あまりが捕らえられ、漢中郡が奪取された。懐王は激怒して、国中の兵を動員して再び秦を襲ったが、藍田で敗れた。韓と魏が楚の敗戦を聞いて、楚を攻撃し、鄧にまで達した。楚軍はこれを聞くと、兵を退いて帰還した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E9%99%BD%E3%83%BB%E8%97%8D%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
という成り行きとなる。
「その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫である鄭袖に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った鄭袖は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%84%80
というものであるところ、上出の楚の懐王の「秦との戦い」の最後のものは、「恵文王14年(紀元前311年)<に秦の>恵文王が没すると<、>太子であった太子蕩が<武王として>即位した<が、彼は、>恵文王の臣をそのまま用い、司馬錯が楚を討ち、商・於の地(かつて商鞅が封ぜられた土地)を奪<いかえし>て黔中郡を設置する成果を挙げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
⇒張儀(~BC309年)は、魏出身の、楚に恨みのある縦横家で連衡策を追求した人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%84%80
秦の恵文王は、張儀に責任転嫁できる形で、(楚秦ステルス連衡の存在について完全に無知である)張儀をわざわざ登用して、その彼に楚を弄び痛めつける政策を追求させることによって、まかり間違えても楚以外の諸国が一致団結して秦(と楚)を叩き潰しに来るようなことがないようにした、というのが私の見方だ。
秦の恵文王が楚の懐王にだけは密かに真意を伝達していた可能性すら私は排除しない。
とにかく、当時の秦と楚の国力を併せても、その他の諸国全てと戦うようなことになればまだ勝ち目がないため、何が何でも、楚秦ステルス連衡の存在を、一旦は強く隠蔽する必要があると考えた、と、私は言いたいのだ。
(続く)