太田述正コラム#3210(2009.4.12)
<知力とは何か>(2009.5.27公開)
1 始めに
 英字紙の台北タイムスには、ガーディアン等、欧米の筆者が記した記事や論説が毎日のように転載され、その選択基準は極めて高いものがあります。
 本日の同紙には、これもよくあることなのだすが、PROJECT SYNDICATE
http://en.wikipedia.org/wiki/Project_Syndicate
配信コラムが掲載されていました。
 ケイス・E・スタノヴィッチ(Keith E. Stanovich)のコラムです。
 大変興味深いコラムだったので、この人が書いたという ‘What Intelligence Tests Miss: The Psychology of Rational Thought’ という本の書評をインターネット検索したのですが、ほとんどヒットしませんでした。
 しかし、あえて、彼が何を言わんとしているかをご紹介することにしました。
 なお、スタノヴィッチは、カナダのトロント大学の人間成長論と応用心理学の教授です。
2 スタノヴィッチの主張
 「2002年に認知科学者であるプリンストン大学のダニエル・カーネマン教授が経済学のノーベル賞を授与された。これは、1996年に亡くなった、長年の共同研究者のエイモス・ツヴェルスキー(Amos Tversky)と彼が一緒に行った研究に対して授与されたものだ。
 彼らの研究は、判断と意思決定に関するものであり、何が我々の考え方や行動を合理的(rational)なものにしたり非合理的なものにするのか、というものだった。
 彼らは、人々がどのように選択を行い確率を評価するかを模索し、意思決定において典型的に生じる基本的諸過誤を明らかにした。・・・
 合理的であるとは、<ある人が、>適切な諸目標を採択し、その諸目標や<その人の>諸信条を所与のものとした<場合における最も>適切な行動をとること、<そして、そもそもその人が、>集めうる証拠と適合的であるところの諸信条を抱くこと、を意味する。
 つまり、合理的であるとは、可能な最良の手段を用いて当人の人生の諸目標を達成することを意味するわけだ。
 だから、カーネマンとツヴェルスキーによって検証された思考の諸ルールを遵守しない人は、我々がそうあって欲しいと願ったほどには満足の行く人生を送ることができない、という実際的な結果がその人にもたらされることになる。
 私の実験室で実施した調査研究は、カーネマンとツヴェルスキーが研究した判断と意思決定の諸技術に関し、人々には、それぞれ固有の違いがあることを指し示した。・・・
 ・・・このような良い(=合理的な)考え方ができるかどうかの評価は知能テストでは行うことができない。
 知能テストは重要な事柄を計測するけれど、それが合理的な考え方の程度を評価することはないのだ。
 仮に知力が合理的な考え方についての強い予測指標であるとすれば、これは深刻な欠陥ではなかろう。
 しかし、私の調査研究グループが発見したことはその反対だった。つまり、知力はせいぜい、予測指標として全く役に立たないわけでないというくらいの話であって、合理的考え方の技術のいくばくかは、知力とは全く無関係である、ということが分かったのだ。・・・
 知力に対して世間がこれほど関心を持つのは、恐らくいくばくかは必要に迫られてのことなのだろうが、少なくとも同等に重要であるところの認知能力・・合理的考え方と行動を維持する能力・・を世間が無視する傾向があるのはいただけない。
 知能テストに対する批判者達は、長らく、この種のテストは、<人の>精神生活の重要な部分、すなわち、主として非認知的領域に属する社会的・感情的諸能力、共感能力、そして対人関係の技術、といったものを無視していると指摘してきた。
 しかし、知能テストは、<テストを受けた人の>認知的機能がどれほどのものであるかについての指標としては、根本的に不完全なのだ。そのことは、極めて高いIQを持つ人のうち、合理的に考えたり行動をとったりすることがいつもできない人が往々にして存在する、という単純な事実からも明らかだ。・・・
 心理学者達は人々を非合理的にするところの、考え方の過誤の主要なタイプについて研究してきた。
 すなわち彼らは、人々が、支離滅裂な確率評価を行う傾向があること、自分の知っている知識に関して自信過剰であること、別の仮説がありうることを無視すること、依怙贔屓的な証拠の評価を行うこと、効果をでっちあげること(framing effects)で首尾一貫しない好き嫌い(preferrence)を抱くこと、長期的福祉よりも短期的報酬を過度に重視すること、不適切な文脈<の設定>によって意思決定が影響されるのを受忍すること、などの様々な過誤を研究してきたのだ。・・・
http://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2009/04/12/2003440859
(4月12日アクセス)
 「・・・ロバート・スターンバーグ(Robert Sternberg)、ハワード・ガードナー(Howard Gardner)、ダニエル・ゴールマン(Daniel Goleman)といった知能テストの批判者達は、近年、この種のテストは感情、共感、対人関係に関する技術、といった重要な事柄を無視していると主張してきた。
 しかし、このような批判には、知能テストは、いくつかの重要な非認知的分野を扱っていないけれど、認知的分野で重要なことはほとんど網羅しているという含意があった。
 彼の本の中で、ケイス・E・スタノヴィッチはこの広範に抱かれている仮定に対し、異論を唱えている。
 スタノヴィッチは、知能テスト(ないしはそれに準ずるもの、例えばSAT<(=米大学入学資格試験(太田))>)は、<ある人の>認知的機能がどれほどのものかに関する指標としては全く不完全であることを示す。
 IQ等は、判断や意思決定といった「良い考え方」に係る技術と関係していると大部分の人が考えるところの諸性向を評価することができないというのだ。
 このような認知的技術は、現実の世界における行動に関してなくてはならないものであって、我々が計画し、決定的に重要な証拠を評価し、リスクと確率を判断し、効果的な決定を行うことに関わっている。
 これらは測定可能な認知的プロセスであるにもかかわらず、知能テストではこれらの技術を評価することはできない。
 <すなわち、>合理的思考は知力と同等に重要だとスタノヴィッチは主張<する。>・・・」
http://www.amazon.ca/gp/product/product-description/030012385X/ref=dp_proddesc_0?ie=UTF8&n=916520&s=books
 「・・・電子計算機が出現するまでは、計数に明るく論理に強いことが知力のすべてだと考えられていた。
 しかし、電卓の発明以降は、電卓が我々よりも何千倍も巧みに計算をしてくれることから、我々は、知力の定義をこれら以外のファジーな認知的諸機能へと移行させることを余儀なくされた。
 最近では、多数の心理学者達は更に先に進み、知能テストの重要性を疑問視するようになった。
 そして、対人関係に関する技術や共感能力を重視するところの、感情的・社会的知力に関する超認知的諸性格理論について議論するようになった。・・・
 <しかし、>スタノヴィッチ<に言わせれば、認知的分野でやるべきことがまだあるのであって、彼>は、知能テストは精神的明晰さ(mental brightness)だけでなく、賢明な意思決定、効率的な行動規制、思慮深い目標設定、そして証拠の適切な校正(calibration)、といった合理性(rationality)も考慮に入れることができれば、はるかに効果的なものになるだろうと主張するのだ。・・・
 知力が傑出している人が途方もなく非合理的な行動をとって我々に衝撃を与え驚愕させることがあるが、そんなことがどうして起きるのかを説明する必要がある、というわけだ。」
http://www.dimaggio.org/K-RS.htm
3 終わりに
 私の周囲には、入学試験にも国家資格試験にもめっぽう強い、恐らくはIQがメチャ高い人で、判断能力が極めて乏しいが少なくありません。
 恐ろしいことに、そういう人がキャリア官僚になったり弁護士や公認会計士等になった場合、出世したり高額所得者にならなかったケースの方が少ないと言ってよいでしょう。
 これは、戦後の日本では、官僚機構や弁護士事務所、監査法人等がまともな仕事をしていなかったり、資格者数が作為的に少なくおさえられてきたために、人事評価機能が働いていないか、人事評価しているわけにはいかないためでしょう。
 それはともかく、判断能力を評価できる試験が考案される日が早く来て欲しいものですね。
 そうなれば、判断能力のない人物は最初から排除することができるようになるからです。
 そしてそれと平行して、日本の受験システムや教育システムを、判断力の見極めや養成をもっと重視するものにつくりかえていく必要があります。