太田述正コラム#15018(2025.6.20)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その48)>(2025.9.15公開)
「・・・漢代の百姓は、収穫物の30分の1を納める田租、更賦と総称する銭額表示の租税、および力役・兵役を負担した。
百姓から徴収した漢代の租税・財物は、まずすべて郡国に蓄えられた。
各郡国は、その戸籍に登録した人口数に63銭を乗じて算出した銭額表示の財物を「賦」とよび、年度末の主計にさいし、貢献物・官僚候補者・財務報告書とともに、これを中央政府に貢納した。
「賦」の全国総額は40億銭にのぼり、中央政府財政の基本財源となった。・・・
<また、>「賦」のほかにも、地方郡国から中央へ、蓄積財物や塩鉄専売収益を順調に送達する必要があった。・・・
こうして、地方郡国で収取・蓄積された租税・専売利益など、諸財物の中央への円滑な輸送と首都圏の物価安定が焦眉の急となった。
前110年、数年前に先行していた均輸改革をふまえて、桑弘羊が本格的に均輸・平準<(注43)>を実施した。・・・
(注43)「中央諸官府が商人から競争で購入していた物資を大農府が「賦」に代わって現物で貢納させ、これによって諸官府の需要をまかなわせた。そのために、長安に平準官を設置し、地方からの財物を受け取らせて管理を強化し、大農配下の諸官府にこれらの物資を独占的に蓄積させて官府の需要充足に対応するほか、物価の高低をにらんで蓄積物資の購入・販売を行い。首都長安周辺の物価騰貴の抑制を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E8%BC%B8%E3%83%BB%E5%B9%B3%E6%BA%96%E6%B3%95
漢代における・・・財政的物流の競争者として活動しだした遠隔地交易商人を排除し、すなわち中央と地方との間の財政的物流を七大交易圏からなる市場流通と切り離し、大農府のもとに中央政府の事業として統一的に運営したのが、均輸・平準であった。・・・
こ<の切り離し>の原則は、8世紀中葉の唐代開元・天宝年間に、河西回廊で商業流通と結びついた財政的物流がはじまり、北宋期に軍需物資を商人に輸送させて手形を支給する入中法が制度化されるまで、基本的に維持された。・・・
前107年には、東方内郡の流民は200万人を数え、戸籍のない者は40万人にたっした。
前99年には、泰山郡・・・など帝国東方の諸郡で数千人規模の大群盗、あるいは数百人規模の群盗が数えきれぬほど発生した。
かれらは郡や県の官府を襲撃し、また郷里社会をも掠奪した。
武帝は、暴勝之・王賀など繍衣御史<(注44)>(しゅういぎょし)とよぶ使者を各地に派遣し、郡兵を用いて群盗を鎮圧させた。
(注44)「王賀にしても暴勝之にしても、武帝が既に高齢であったこの時期、あまりに真面目にやりすぎて周囲の恨みを買うよりは、加減をして人々に恩を売った方がいいのではないか、今に皇帝が代わって方針も変わってしまうかもしれないじゃないか、という想いは共通して抱いていたのではなかろうか。王賀の方が大胆だっただけで。
なお、罷免されて嘆いた王賀に対し、暴勝之は御史大夫に至っている。これは、王賀が人を助けすぎ、言い換えれば職務怠慢に過ぎた事と、武帝の治世がまだ10年以上続き、助けた人々から恩返ししてもらうような機会にも恵まれなかったという事ではなかろうか。・・・
<ちなみに、>王賀<は、>・・・王莽の先祖<だ。>・・・
<また、>暴勝之<は、>王訢という県令から説得されて処刑しないで助けてやったという話が残っている<ところ、この>・・・王訢の子孫が王莽の正妻である。」
https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/09/21/000100
数年たって、あらかた群盗の首領をとらえたが、根絶するにいたらず、盗賊はまたしだいに増加した。」(91~94、97、104)
⇒苛政も緩治の一種的な私見を記したばかりですが、苛政下では、繍衣御史達によるお目こぼし取締りなる文字通りの緩治あり、という次第であるわけです。(太田)
(続く)