太田述正コラム#15020(2025.6.21)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その49)>(2025.9.16公開)
「・・・儒学かぶれの元帝<(注45)>(在位前49~前33)が即位すると、宣帝の方針とは異なり、徳教・周政、すなわち儒学を重点的に用いる方向に動きだした。
(注45)BC74~BC33年。「即位すると、現実的な法家主義者だった宣帝と異なり、儒教を重視した政策を実施し<、>・・・儒者を登用したが、前46年に宣帝の代から側近として重用されていた宦官<達>・・・と対立し<、儒者は>失脚した。以後、元帝の治世は宦官により専断されることとなった。
厳しい刑法を改正するなどの政策を採用し、民衆の生活の安定を図ろうと試みた。
また、財政の健全化を図って税を軽減した他、大規模な宴会を禁止、狩猟用の別荘や御料地の経費を抑え、宗廟など祭祀にかかる経費を削減した一方、儒教に傾倒するあまりに現実離れした理想論に基づく政策も実施され、専売制を廃止したために財政を悪化させて国政を混乱させ・・・た。
そのため宣帝により中興された国勢は再び衰え、元帝の皇后王氏一族から出た王莽の簒奪の要因を作り出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
⇒儒教に基づく仁政とは言っても、要するに緩治を深化させただけのことであり、漢は、元帝の子の次の成帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
を経て元帝の孫の哀帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
の時のAD8年に滅びることになるのです。(太田)
元帝が即位して間もなく、前46年、斉詩学派の翼奉<(注46)>が上奏文を提出し、首都を洛陽に遷し、畿内制度をはじめ儒家礼制にもとづいて国制を改革するよう提案した。
(注46)よくほう(?~?年)。「詩経の斉の学派を学び、・・・律暦や陰陽の占いを好んだ。元帝が即位すると、儒学者たちが元帝に彼を推薦したので召し出し<た。>・・・
関東で大水があり、飢饉・疫病が発生した。元帝は各地にある皇帝の私有財産である土地を貸して租税を取らないようにしたり、離宮などの修繕を取りやめさせたり、馬に与える飼料を減らすなどの対策を取った。しかし次の年には二度も地震が起こり、斉では人が人を食べるまでに困窮した。そこで元帝が直言極諫の士を推薦させたところ、翼奉は封事を奉った。そこで外戚が朝廷に多いことで陰の気が盛んになっていることを批判し、また各宮殿等の女官の数が多すぎるので減らすべきことを提案し、次の災いとして火災があることを予言した。
翌年、武帝の園内で火災があった。元帝が翼奉より再度話を聞くと、翼奉は雲陽・汾陰での天地の祭祀、および天子の宗廟の数を定めずに祀っていることが古の制度に適わない上に費用がかかることを述べた。更に、宮殿や庭園などの奢侈を改めるため、洛陽への遷都を提案した。・・・<また、>天地の祭祀を雲陽・汾陰から長安の南北郊で行うよう改めることを<提案>した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BC%E5%A5%89
この上奏をかわきりに、『礼記』王制篇や『周礼』など、儒家の古制によって「漢家故事」を検証、批判しながら、新たな諸制度をたちあげることがはじまった。
⇒要は、インチキ迷信言説を駆使して、緩治をことあるごとに訴え、それを儒教かぶれの皇帝に「実践」させた、というわけです。(太田)
この国制改革は、王莽(前45~後23)が実権をにぎっていた平帝の元始年間(後1~後5)に最高潮をむかえ、王莽の新朝滅亡後、後漢<(注47)>の初代光武帝によってふたたび立ちあげられ、第二代明帝の永平3年(後60)に完成した。」(108)
(注47)「漢王朝は紀元8年,王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断した。中断以前の漢を前漢というが,都を西の長安(西京)に置いたところから西漢ともよばれる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%BC%A2-85620
⇒前漢のことを、漢人世界でも欧米でも西漢と呼んでいる以上、
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%89
https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty
日本もそれに倣うべきでしょう。(太田)
(続く)