太田述正コラム#15024(2025.6.23)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その51)>(2025.9.18公開)

 「・・・前3年3月、長安では哀帝がおきにいりの侍中董賢<(注50)>(とうけん)(前22~前1)等3人を列侯に封じ、あまつさえ董賢には2000余頃もの広大な田土を賜った。

 (注50)「その眉目秀麗なる容姿から前漢の哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。・・・男色の別称のひとつとなった「断袖」(だんしゅう)の故事の由来となった人物でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E8%B3%A2

 1頃=100畝が小農民の標準占有田土であるから、とほうもない額である。
 都城長安の面積でさえ973頃であった。
 これは、前年におきた東平王劉雲と王后謁夫妻による哀帝呪詛と謀反の計画を告発したことへの褒賞であった。
 この事件は、董賢等を引き立てようとする皇帝ぐるみの冤罪事件であった。・・・
 <漢の>爵制的土地所有は、商鞅第一次変法の爵制的秩序の形成と第二次変法の阡陌制<(注51)>とに淵源する。

 (注51)「秦の商鞅の阡陌制を、縦五千歩、横二千四百歩(×二) の道によって百頃の耕地を十区劃つくり、核家族の成年男子に一頃ずつ割りあてた制度とし、一郷=一阡陌、千五百戸(うち五百戸城内) 、都郷=二阡陌、県=一都郷、三下郷、百里四方、十里に一亭、百里に一都郷をおいたとすると、すべての伝文を矛盾なく解釈できるだけでなく、統計と一致する。漢代の統計によると、一県=耕地五千頃、可耕地未墾田二万頃、邑居山川林沢一万二千五百頃である。これは、魏の李悝のいう地方百里の侯国の墾田対邑居山川林沢の比と一致する。これによってみると、秦漢の県郷亭里制は、李悝の尽地力説と商鞅の阡陌制によったものであったと認められる。」(早大教授古賀登「県郷亭里制度の原理と由来」より)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649776117888

 漢初の「均田制」(爵制的土地所有)は、庶民無爵社の1頃(分田)保有を基盤とし、関内侯の95頃を最大限とする給田制であった。
 列侯(徹侯)の爵位をもつとはいえ、董賢が3000頃の田土をあたえられれば、だれしも「均田制」の崩壊を嘆かざるをえない。
 爵制的土地所有の規定とはべつに、給田後の土地売買は認められたから、戦国末漢初の社会には、農民の階層分化がかなり進行していた。・・・

⇒「戦国末漢初」とはまた、アバウト過ぎるのではないでしょうか。
 渡辺が手掛かりになるようなことを全く書いてくれていないのは残念ですが、均田制的なものは、秦が総力戦体制構築のために実施したものですから、給田後の土地売買を認めてしまっては、動員可能兵力を政府が田/人管理を通じて直接把握できなくなってしまう以上、天下統一までは秦においては土地売買は認められなかった筈である一方で、秦以外の諸国では、均田制的なものを秦ほど徹底して実施していなかったと想像され、よって、土地売買は多かれ少なかれ行われ続けていた、と、私は考えています。(太田)

 武帝期にはいると、たびかさなる対外戦役や財政政策のあおりをうけて中産層が没落し、土地売買が激化しはじめた。
 たびかさなる対外戦役や財政政策のあおりをうけて中産層が没落し、土地売買が激化しはじめた・・・
 哀帝即位の前7年には、官人・富豪層の土地所有を30頃に制限する「限田策」が議論された。
 しかし哀帝の外戚や董賢等の反対にあって沙汰やみとなってしまった。」(118~119、122~123)

⇒哀帝がダメ皇帝だったことも確かながら、私見では、そもそも、軍事軽視/緩治なる統治思想の下では、均田制の維持どころか、限田策でさえ、その実行のインセンティヴが働きにくい、ということなのです。(太田)

(続く)