太田述正コラム#15026(2025.6.24)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その52)>(2025.9.19公開)

 「・・・統一秦朝の<時点で、>・・・すでに郷里社会には貧富の懸隔が存在し、陳平<(注52)>は、30畝の土地を耕作する兄とともに暮らす貧農であった。

 (注52)?~BC178年。「当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂后亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3

⇒陳平は現在の河南省開封市の出身である(上掲)ところ、同市は「戦国時代には魏の領域であり、大梁と名づけられて首都となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%B0%81%E5%B8%82 ★
場所であり、彼が当初、魏の公子の魏咎<(ぎきゅう)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%92%8E
の下にはせ参じたのもそれ故なのでしょうが、魏において、均田制的なものは徹底して実施されておらず、従って、土地売買も一貫して行われていた、というのが私の見立てであるわけです。
 それはそれとして、陳平は、まことに面白い歴史上の人物であることよ、と、改めて思います。(★)(太田)

 富者との婚姻を機に成りあがっていく陳平の姿は、戦国前漢期の社会的流動性の高さを如実にもの語っている。・・・
 即位後の王莽は、『礼記』<(注53)>王制篇や『周礼』<(注54)>などの儒家経典を典拠とする諸改革をあいつぎ実行した。・・・

 (注53)らいき。「周から漢にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を、前漢の戴聖が編纂したものである。その内容は、政治・学術・習俗・倫理などあらゆる分野に及ぶ、雑然とした記録の集積である。」全49篇各篇の作者に孔子や孟子は一切あげられていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E8%A8%98
 (注54)しゅらい。「『周礼』は偽書の疑いがあり、紀元前11世紀に周公旦が作ったとも、前漢代に劉歆が作ったともされる。また現代の研究の進展により戦国時代末期に成立したとの見方が示されている。
 内容としては、周王朝の「礼」、すなわち文物・習俗・政治制度、特に官位制度について記されており、戦国時代以降の儒者にとって理想的な制度とみなされた。ただし、考古学調査によって得られた金文資料や他の先秦文献に記された制度とは、食い違いを見せている。」孔子や孟子とは無関係だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%A4%BC

⇒『礼記』も『周礼』も、そもそも、孔子とは無関係の、かつ、怪文書と言ってもよさそうな代物であり、こんなものを重視したところの、新にしても後漢にしても、鰯の頭の信心的なことをやらかしたわけであり、しかも、それらが先例化した結果、爾後の漢人諸王朝を更に堕落させてしまった、と、言えるでしょう。(太田)

 王莽の末年、帝国東方や南方長江中流域で大飢饉が起こり、後17年の秋ごろから各地で群盗が蜂起した。
 また王莽の政治に限界を感じた人びとは、漢王朝の再興をかかげて各地で反乱を起こし、帝室劉氏一族も多くの反乱に加わった。」(126~127、129)

⇒もちろん、孔子の唱えた仁や孟子の唱えた仁政
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E6%94%BF-538042
などさして気にした気配のない王莽の新が、大飢饉の救恤施策を実施したなどという話は全くありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD (太田)

(続く)