太田述正コラム#15028(2025.6.25)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その53)>(2025.9.20公開)
「・・・光武帝劉秀<(注55)>(在位25~57)は、即位後、統一戦争を進めるかたわら、王莽が前漢末までになしとげた国制改革をふたたび順次立ちあげていった。」((131)
(注55)「前漢末以来の混乱で<支那>は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた。この対策として光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。徴兵制を廃止して、通常は農業生産に従事させ有事に兵となす屯田兵を用い、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。
人民の身分に関する政策としては上記の奴卑解放令の他、35年(建武11年)には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言したことが挙げられる。また31年(建武7年)に売人法、37年(建武13年)に略人法を公布し人身売買を規制した。
租税については、それまで王朝の軍事財政の不足を理由に収穫の1/10としていたのを30年(建武6年)に前漢と同じく1/30とし、人民の不満の緩和を図った。この減税が可能となった背景として、屯田の施行により兵士の糧食を確保できるようになったことがある。
徴兵を帰農させた後、39年(建武15年)に耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。・・・
王莽が貨幣制度を混乱させたため後漢初期には粗悪な貨幣が流通していたが、40年(建武16年)には前漢武帝以来の五銖銭の鋳造が始められ、貨幣制度が整備された。・・・
官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。
また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした。・・・
<劉秀は、>新朝の天鳳年間に長安で『尚書』を修め、ほぼ大義に通じたという。・・・
光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。・・・
光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯<(しんい)>説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D
陰麗華(5~64年)。「劉秀と同じ南陽郡新野県出身の豪族陰氏の娘で、近隣では評判の美女として、挙兵前の光武帝も「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言ってこがれるほどであったという。更始元年(23年)に劉秀に嫁いだ。
建武元年(25年)に劉秀が光武帝として即位すると貴人として洛陽に迎えられた。しかしこの時、光武帝が後に娶った郭昌の娘である郭聖通(郭貴人)が先に男子の劉彊を産んでいた。光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思うものの、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。
建武2年(26年)に劉彊は皇太子になり、郭貴人が皇后に立てられた。建武4年(28年)、陰麗華は劉荘(後の明帝)を産んだ。建武17年(41年)に、郭皇后がそのわがままな性格から、光武帝に疎まれるようになり皇后を廃されたため、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられることになった。
建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位し、陰麗華は皇太后となる。陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であったという。また、己の一族には政治に関与させないようにした聡明な女性でもあった。このため、唐の太宗の皇后である長孫皇后や明帝の皇后の馬皇后と並んで、<支那>史上でも優れた皇后の一人として称えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%BA%97%E8%8F%AF
⇒前漢の途中からは塩鉄の専売も行われていたとはいえ、前漢、後漢の1/30はもとより、暫定的に実施されていた1/10ですら、日本の江戸時代の四公六民や五公五民
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%9B%E5%85%AC%E5%85%AD%E6%B0%91/
に比して税が軽すぎます。
これは私見では徴兵制を前提としての税制だったと考えられるところ、前漢初期(と後漢初期?)を除けば徴兵制は撤廃されていたらしい以上は、緩治、ひいては統治放棄、の下でのみ収支の帳尻が合う代物であったのではないでしょうか
また、光武帝の迷信たる讖緯説かぶれ度は、王莽も真っ青といった趣があり、話になりません。
結局、光武帝の功績は、前漢末以来の混乱を収束させたこと、と、控えめで見識ある皇后を娶った、という2点に尽きる、と言えそうです。(太田)
(続く)