太田述正コラム#15030(2025.6.26)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その54)>(2025.9.21公開)
「それは、つぎの明帝劉荘<(注56)>(在位57~75)の初年、後60年にいたり、あらたな制度を組みこんで完成した。」(131)
(注56)28~75年。在位:57~75年。「父の施政方針を継承した政策を実施したが、外交面では光武帝の消極策を改め、武帝以来となる西域への積極的な進出を再開した。この対外政策により班超が活躍することとなった。
明帝の時代に仏教が正式に伝来したと伝えられる<。>・・・
明帝の治世は、光武帝・章帝と並び、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。和帝以降は幼少の皇帝が続き、幼少の皇帝の外戚勢力と宦官勢力とが政争を繰り広げ、結果として後漢の滅亡の大きな要因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
「馬皇后<は、>・・・政治に対しての介入は一切せず、親類が外戚として権力を振るうことを押さえ込んだ。・・・
貴人だった頃、明帝の五男劉炟(後の章帝、生母は賈貴人)を養子にする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E9%A6%AC%E7%9A%87%E5%90%8E
「班超は歴史家の家に生まれ、幼い頃は兄と一緒に歴史を学んでいた。
62年(永平5年)、兄の班固が招聘されて校書郎となったので、班超は母と妹と共に兄に従って洛陽に移った。
家は貧しかったので、いつも役所で文書の書き写しをする仕事をして親を養っていた。 73年(永平16年)、明帝は奉車都尉の竇固<(とうこ)>(光武帝の孫、竇融の甥)を大将として北匈奴征伐に乗り出し、班超は仮司馬として参軍した。
竇固は将兵を別けて伊吾を攻め、班超は蒲類海の戦い(現バルクル湖)において多くの首級を挙げた。
この働きに竇固は班超の有能さを認め、班超を従事の郭恂と34人の部下とともに西域諸国への使者として向かわせた。
鄯善国(楼蘭)に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。その時北匈奴の使者も来ていたのである。このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」と勇気付けて、北匈奴の一団に切り込んだ。班超たちは36人しかおらず北匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた北匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。これにより鄯善国は漢に降伏した。
その後も班超は36人の小勢で于窴国(ホータン)王の広徳を降伏させ、冬には疏勒国(カシュガル)に行き、北匈奴側であった亀茲王の建によって疏勒王に取り立てられていた亀茲左侯の兜題を捕え、建に殺された前疏勒王の成の兄の子である忠を立てて疏勒王とした。
これらの班超の活躍により、西域の南半分は後漢の勢力に置かれた。
しかし、75年(永平18年)、明帝が崩御すると、これに乗じた焉耆国は漢に叛いて、西域都護の陳睦を殺害し、亀茲国・姑墨国は疏勒国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于窴国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城・盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は尉頭国と寝返り、『孤立無援』の状態であった。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。
即位した章帝は西域都護を廃止し、西域を放棄することを決定した。章帝は班超たちにも帰還命令を出したが、西域諸国の王や貴族たちから「漢軍が引き上げれば、その後には当然北匈奴たちが舞い戻り、漢に味方した者を皆殺しにするだろう」と泣き付かれたため、班超は残ることを決断した。命令に違反した班超らは本国から絶縁されてしまい、三十余人の部下と共に5年間、疏勒に留まることを余儀なくされた。
80年(建初5年)、初めて本国より千余人の援兵を送られる。これ以降、事態は好転していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E8%B6%85
⇒竇固(~88年)すら、読書好きで兵法好きだっただけで軍人として登用されたらしい
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%87%E5%9B%BA
わけですが、班超に至っては、「注56」から分かるように、兵法好きであったという程度の軍事との接点すらなかった人物であり、そんな班超を、恐らくは班固の弟というだけで、軍人として登用した明帝による「西域への積極的な進出」が聞いて呆れます。
実際、明帝時の「西域・・・進出」は班超の向こう見ずさと僥倖の連続によってなされたに過ぎません。(太田)
(続く)