太田述正コラム#15070(2025.7.16)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その5)>(2025.1011公開)
「・・・商業<(注13)>は戦国時代から各地で盛んになり、遠隔地や外国とも交易して(玉(ぎょく)、ブドウ酒、馬、毛織物など)巨利を博す者が現れはじめる。
(注13)「春秋戦国時代の諸子百家の1つ、[李悝、商鞅等]法家は、農業を本業、商工業を末業と位置付け、その関係性について「重本抑末」を説いた。この重農抑商政策は近代まで変わらず、中国の経済主体は農業であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2
https://baike.baidu.com/item/%E9%87%8D%E6%9C%AC%E6%8A%91%E6%9C%AB/4541042 ([]内)
李悝(りかい)=李克(?~BC395年)は、「魏の・・・文侯<に仕えた。>・・儒家である子夏の門弟であったが、その業績から法家と分類される人物で、儒家からすれば、転向者である。穀物の価格調整を行って農民の生産意欲を高め、成文法を制定して富国強兵を成し遂げた。李克の政策はのちに商鞅によって受け継がれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%8B
商鞅(BC390~BC338年)は、「姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。・・・若い頃は魏の恵王(在位:紀元前370年 – 紀元前335年)の宰相で、韓の公族出身である公叔痤の食客」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85
⇒「<支那>最古の王朝と言われる商(殷ともいいます)<で>は・・・民間交易も発達し、これまでの物物交換の代わりとなる通貨を使っての売買が確立したのもこの時代です。・・・周<との>・・・戦いに敗れ都城から追い出された商王朝の臣民たちは、土地がないため生産手段をもっておらず、モノの売り買いによって生活を維持しました。やがて月日がたち、物を売り買いして生計を立てる事が一つの職業として確立されました。そして、この業を行なう者の多くが、商王朝の遺民達であったので世の人々は、物を売買する人達のことを商の人=商人と呼ぶようになったそうです。ちなみに古代の<支那>では、物の売り買いをする人の呼び方が2つあり、固定されたお店を持って物を売買する人を賈(コ)人、外で交易を行う人を商人と分けていたそうです。」
https://mitsutomi.jp/merchant-2664
的な認識を持っている私としては、丸橋のこのくだりの主張には首を傾げざるを得ません。
また、付言すれば、敗れた商の臣民たちが商業に従事できたのは、中原を支配して建国する前に彼らが商業に従事していたからこそである、と、私が考えているところです。
その上でですが、戦国時代の拡大中原において(それまでに既に盛んになっていた)商工が抑圧されたのは、「工」が多かれ少なかれ武器の製造と関係があるので、その技術の流出を防止する必要があったこと、そして、武器や食料(兵站!)の物理的な域外流出を防止する必要があったから、というのが、私の取り敢えずの仮説です。(太田)
刀銭<(注14)>や蟻鼻銭<(注15)>などの青銅貨幣も各国で用いられるようになった。」(29)
(注14)「刀貨ともいう。戦国時代にの青銅貨幣の一つで現在の山東省にあった斉と北京周辺にあった燕で流通した。小刀を模したもので、斉のものがもっとも大きい。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-048_1.html
(注15)「貝銭とも云う。戦国時代の青銅貨幣の一つで、金属が流通する前の貨幣であった貝をかたどったもの。江南地方ので楚で流通。・・・蟻の頭のような形をしているので蟻鼻銭という。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-048_3.html
(続く)