太田述正コラム#15072(2025.7.17)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その6)>(2025.10.12公開)
「秦を大国に押し上げた立役者、呂不韋(?~前235)はこの時代を代表する大商人である。
⇒というより、呂不韋は、「重本抑末」の時代にあって、大商人を目指すのは無理だと悟り、政商を目指し、趙で人質になっていた秦の公子の嬴異人(後の秦の荘襄王)に目を付けた、というのが私の見方です。(太田)
こうした商人の成長は、法家的な農本主義を基調とする一君万民体制の立場から非常に警戒された。
秦漢時代の承認政策は、抑制が基本方針である。
商人は公設市場の名簿(市籍)に登録しなければならず、その公設市場でしか営業できなかった。
商業統制をもくろむ国家と、自由交易を求める商人・富裕層の間の緊張がピークを迎えたのが、前漢中期である。
武帝の時代、外征の連続で国庫が枯渇すると、中央政府は財政再建・軍費調達のため、積極財政へと舵を切った。
旗振り役を務めたのは、「酷吏」と呼ばれた張湯<(コラム#13802)>(ちょうとう(?~BC116。・・・)、商人出身の桑弘羊<(コラム#13802)>(そうこうよう)(前152~前80)らである。
まず国家収入を増やす施策として、売官や売爵が行われ、さらには算緡<(コラム#15016)>(さんぴん)という新税が導入された。
算緡は財産の多寡に応じて課されるものであったが、特に商人に対して高税率を設定したあからさまな抑商政策である)前119)。
しかも、少し後に出された告緡(こくびん)令によって密告が奨励され(前114)、申告漏れに対しては財産没収などの厳しい措置がとられたため、中産以上の商人はほとんどが破産したともいわれる。
一方、塩・鉄の専売(前119)、均輸・平準幇(前110)は、単なる増収策にとどまらず、政府が積極的に流通経済に関与し、経済効果を得ようとする施策である。・・・
前漢中期・・・以降、豪族対策の担い手として史料に目立ち始めるのが「酷吏」<(注16)>である。
(注16)「この言葉は司馬遷の『史記』列伝第六十二「酷吏列伝」から始まったが、この言葉が発生した当初は多少侮蔑的な意味合いを含ませていたとしても、原則的には法家主義に則り、法律を厳格に適用する役人を指した。時代が下るに従って、冤罪の捏造、拷問係など、いわゆる「汚れ仕事」全般を行う官吏を指す蔑称となった。
酷吏は前漢の景帝時代から台頭し始め、武帝時代には重用されたため、他の官吏も出世のために彼らの行いを見習ったという。・・・
対比として法律に従い正しく人を導く役人を「循吏」(じゅんり)と呼んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%B7%E5%90%8F
「司馬遷は『史記』に「酷吏列伝」を設けて 11人の酷吏を記し,班固は『漢書』で4人を記した。他の正史にも多く酷吏伝が設けられている。前漢の酷吏は張湯,趙禹らで,彼らは法家主義の立場に立ち,武帝の意を迎えて中央集権的政治や取締りを行い,その批判者,反対者を厳罰に処した。また地方官として任地に行った酷吏は,豪族が勢力をたくわえて郷村を支配することが,中央集権政治の妨げであるとして,弾圧した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%85%B7%E5%90%8F-64339
酷吏とは一君万民を原理主義的に追求・実践しようとする官僚の形容であり、彼らは農村の貧富格差を拡大しかねない豪族を、さまざまな理由を付けては、財産没収・一族誅滅などの形で弾圧した。・・・」(29~31)
⇒丸橋の酷吏の紹介の仕方は酷吏が地方官に任ぜられた場合の話だけを取り上げていて片手落ちです。
そのことは、司馬遷が取り上げた酷吏の郅都(しつと)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%85%E9%83%BD
の事績からは明らかではないでしょうか。(太田)
(続く)