太田述正コラム#15074(2025.7.18)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その7)>(2025.10.13公開)

 「・・・しかし豪族の成長はその後も続いた。
 前漢中期以降、地域の有力者を官僚に推挙する察挙<(注17)>制度が広がると、豪族たちは官僚機構に進出し、官界にも地歩を築くようになったのである。

 (注17)「推挙による任用。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9F%E6%8C%99-2822447

 察挙の際には孝廉・賢良という儒教的素養の有無が推薦の基準とされたため、前漢後期には、基層社会には儒教理念の浸透、中央政界には儒家官僚の進出という現象が、並行的に進んでいく。・・・
 後漢時代には儒教をまなぶ官民の学校が地方にも広がり、多くの若者が各地の学者の門下に集まって強固な師弟関係を結んだ。
 その者がいよいよ官僚への道に挑戦する段になれば、察挙の際、登用を決めた試験官との間に強い絆が生まれ、キャリア全期間を通じて、互いに引き立て合った。
 また勤務した役所内で登用してくれた上司との間に緊密な関係を結び、異動後も助け合うケースがしばしば見られた(これを故主(こしゅ)-故吏(こり)関係<(注18)>という。)・・・

 (注18)「豪族は儒教を学び、地方の郡県の属官となり中央政界に進出することを欲したが、そのためには有力者との関係を重視した。学業を授けてくれた師に対しては「門生」と称し、官界で出世を助けてくれた先輩官僚には「故吏」と称して個人的な親密関係を築いた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-106.html

⇒軍事官僚の話が全く出て来ないことに、我々としては注目すべきでしょう。(太田)

 呉越地方は、両漢交替期以降に中原の戦乱を避けた人口が流入し、任延<(注19)>(じんえん)・樊曄<(注20)>(はんよう)といった南陽郡出身の地方官による開発が進んだ。

 (注19)5~67年。南陽郡(現在の河南省南陽市)出身。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E5%BB%B6
 (注20)?~?年。出身は同上。
https://zh.wikipedia.org/zh-hant/%E6%A8%8A%E6%9B%84

 順帝(在位125~144)期には、会稽郡の長官馬●(ばしん)が鏡湖を開き、9000頃(約4万ヘクタール)を開発した。<(注21)>

 (注21)調べがつかなかった。

 また、『呉越春秋』<(注22)>、『越絶書』<(注23)>などの書物が呉越人の手で記され、春秋末期の呉越戦争などを地元の歴史として積極的に語ろうとする地域意識も芽生え始めていた。

 (注22)「後漢初期の趙曄(ちょうよう)によって著された、春秋時代の呉と越の興亡に関する歴史書。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B6%8A%E6%98%A5%E7%A7%8B
 (注23)「同じく呉と越を扱った後漢の書物に『呉越春秋』があり、内容も多く重なるが、成書年代は『越絶書』の方が早く、『呉越春秋』の記事の中には『越絶書』を元にした箇所が多くあるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%B5%B6%E6%9B%B8

 こうした過程を通じて江南の発展が始まり、江南地域の人口は前漢末の250万から後漢には620万へと大幅に増加し、北と南の人口比も前漢の5対1から、後漢には2対1となった。」(32、34~36)

⇒戦国時代に、楚が戦国七雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E4%B8%83%E9%9B%84
の中で面積的には、秦と並ぶ超大国であっても、人口的には比較的大国、程度に過ぎなかったことが思い起こされます。(太田)

(続く)