太田述正コラム#15076(2025.7.19)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その8)>(2025.10.14公開)

 「・・・漢代に進められた各地の開発は、地方の役人が主導したものが多い。
 地方官が民生に積極関与し、治安維持やインフラ整備に実績を上げた記録が数多く残されており、功績良好な郡の長官には「良二千石<(注24)>(りょうにせんせき)」という評価が与えられた(二千石は郡の長官の給与額で、それがそのまま郡の長官の通称となった)。

 (注24)「漢の秩石には万石から百石まであり、その数字に応じて俸給が半分は穀物、半分は銭で支給された。・・・二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。・・・二千石の諸官の中でも、特に郡の長官である郡太守や諸侯王の相の代名詞として「二千石」が使われる場合があった(『漢書』循吏伝)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%83%E7%9F%B3 

 後世、科挙の時代になると、地方官と赴任地の癒着を防ぐ制度が二重三重に設けられたため、地方官は「渡り鳥」化し、民生への関心を失いがちになっていく。
 そうした時代の世論のなかで、漢代は・・・もちろん酷吏と豪族の対立のような事態は無数にあったが、・・・「地方政治の理想的時代」とされた。・・・

⇒呉越地方の郡の長官の任延や樊曄といった、広義の地元と言ってもよい、旧楚の南陽郡、出身の地方官達による開発が進んだのは、呉越を含む江南が、広義の中原からの人口流入(前述)はあっても、江南文化の人間主義的性を帯び、かつ自分の広義の地元への愛情を抱いた地方官による人間主義的統治の賜物であったのではないか、というのが、私の仮説です。(太田)

 後漢末の荊州<(注25)>は、長官の劉表<(注26)>(りゅうひょう)が主導して学校の拡充など文化振興を進め、戦乱を逃れた文人たちが多数集まって荊州学<(注27)>と称される学派が形成されていた。

 (注25)「紀元前105年・・・、漢の武帝が全国を13州に分割した際、荊州が設置された。・・・現在の湖北省一帯・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%8A%E5%B7%9E
 (注26)142~208年。「政治家・儒学者。・・・前漢の景帝の四男の魯恭王劉余の六男の郁桹侯劉驕の子孫。・・・
 201年・・・、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A1%A8
 (注27)「劉表は、荊州の安寧を伝え聞いて各地から避難して来る学士達の生活を安定させ、学問の振興を図るべく典籍を集めて学校を起こし、学問を講論させたため、建安三年(一九八)以後の十年は、まさに荊州が天下の学問の中心地的様相を呈し、集まった多くの学士達により「荊州学」なるものが形成される。」
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ryuuhyoutojyouyou.html

 『<三国志>演義』にも出てくる司馬徽<(注28)>(しばき)や徐庶<(注29)>(じょしょ)、龐統<(注30)>(ほうとう)、そして諸葛亮<(注31)>等は、学派のなかでは劉表から距離を置くグループであり、荊州で「髀肉の嘆」をかこっていた劉備<(注32)>からの「三顧の礼」に応じることとなったのである。」(36、42)

 (注28)?~208年。「人物鑑定家として名を博した。・・・荊州を支配していた劉表には仕えず、隠士として暮らしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%BE%BD
 (注29)?~234年?。「撃剣の使い手で、義侠心に厚く、人の仇討ちを引き受け殺人を犯したがために役人に捕らわれたが、後日仲間に助け出された。これに感激して以降は剣を捨て、学問に励むようにな<り、>・・・司馬徽の門下生とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%BA%B6
 (注30)179~214年。「武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。・・・「臥龍(がりょう)」「伏龍(ふくりゅう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%90%E7%B5%B1
 (注31)181~234年。政治家・武将(軍師)。
 (注32)「前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? – 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99

⇒後漢末~三国時代、は、一種の戦国時代であったというのに、武将としても活躍した龐統や諸葛亮すら、その経歴に軍事について学んだ形跡がない、というところに、この時代にして既に軍事軽視の甚だしきを痛感させられます。(太田)

(続く)