太田述正コラム#15088(2025.7.25)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その14)>(2025.10.20公開)

 「・・・「9世紀末の遣唐使の廃止により、日本文化は独自色を強め、国風文化に移行した」という理解<は>きわめて一面的である<。>・・・
 遣唐使廃止はむしろ「民間交流が定着し、文物・情報が安定的に入るようになったことで、高コストの朝貢使節派遣を続ける動機が失われたため」なのである。<(注43)>」(91)

 (注43)「寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。8月21日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。
 道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は以下のとおりである。
 中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく、既に日本と唐の交流は停止している。
 過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では唐に渡ってからも危うい。
 中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。・・・
 <しかし、>道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)5月13日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。
 しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

⇒「884年6月・・・、10年に渡った黄巣の乱は終結した。翌885年に僖宗は成都から長安へと戻るが、各地の藩鎮勢力は唐から自立化して独自の軍閥勢力となっており、唐は長安周辺を保持するだけの一地方政権へと堕落した。この後、朱全忠や李克用ら藩鎮勢力が相争う時代となり、乱終結からおおよそ20年後の907年に朱全忠によって唐は滅びた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
という状況下で、「民間交流が定着し、文物・情報が安定的に入るようになった」もクソもないでしょう。
 そもそも、838~839年の第19回遣唐使が事実上最後の遣唐使だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF 前掲
のであり、その完了時点で、既に、「高コストの朝貢使節派遣を続ける<国としての>動機<は>失われ<てい>た」のです。
 その動機は、私は、騎馬遊牧民系の脅威に対していかなる国制で抑止すべきか、また、かかる国制下で、日本社会の非人間主義化を回避する方法はあるのか、あるとしてその方法とは何か、を模索する手掛かりを得るためだった、というのが私の見方である(コラム#省略)わけです。(太田)

(続く)