太田述正コラム#15098(2025.7.30)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その19)>(2025.10.25公開)

 「・・・五代十国<時代(注54)の>・・・諸国はその内部編成に注目すると、二つに大別できる。

 (注54)「魏晋南北朝<(907~960年)>から隋・唐時代までは貴族が政治の主導権を保持した。宋代になると科挙出身の文官で構成される官僚機構が整備され,その頂点に位置する皇帝の制度的独裁体制が成立する。五代十国期の〈武人支配〉は,この〈唐宋変革〉の過渡期としての性格を示す一指標である。・・・
 五代十国の諸国は、政治権力の維持および領国の安定を確立するため、富国強兵、殖産興業などの政策を実践していた。前蜀および後蜀の絹織物を中心とした四川(しせん)の産業復興や西南蛮夷(ばんい)との貿易、楚国の茶業振興による特産化や南海舶載品の仲継貿易、閩、呉越、呉、南唐、南海など臨海諸国の海産資源の開発と海上貿易などは、諸国の国力充実に大きく寄与していた。このような諸国の産業および貿易の振興は、諸国間における交通を活発にし、修好関係の維持と安定をもたらすこととなり、また商人の活躍も盛んであった。・・・
 庶民の生活は過酷なものであった。当時の民衆は、田畝(でんぽ)を基準に課税された両税や、付加税である沿徴などの税負担以外にも、武人の不法な私的課税や商人、富農らの高利貸付に苦しんでいた。とくに沿徴は過重な税負担であった。沿徴には、武具用牛皮の代価にあたる牛皮銭、鉄器具の製造・販売の自由化の代償である農器銭、酒と塩の自由化の代償である麹(きく)銭(榷酒(かくしゅ)銭)や塩銭、橋梁(きょうりょう)保全のための橋道銭などがあった。また発展していた都市の住民に対しても屋税や地税が新たに課税された。当時の民衆は、武人による苛斂誅求の苦しみによく耐えて生活していたのである。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD-65051

 第一は、沙陀族に率いられた・・・精強な騎馬軍団を擁する「馬の世界」の遊牧系諸国であり、山西や河北を拠点に台頭した。
 第二は、・・・群盗・塩賊・賤民のようなアウトローを開祖とする「船の世界」の国々であり、大運河や長江の流域、東南沿海域に勢力を広げた。・・・」(94、96)

⇒「唐末の混乱に乗じて、この地に節度使として勢力をふるった銭鏐(せんりゅう 852~932)は、907年、広州を都に呉越国を建てた。これが五代十国の争乱の始まりであり、十国のひとつに数えられている。呉越国は江南の開発を進め、広州の港湾を整備して都市としての基盤を作った。杭州の商人も盛んに日本の博多などに来航しており、呉越国は10世紀の日本の<支那>文化を摂取する窓口として重要な存在であった」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-058.html
以上、唐末~五代十国の政治軍事情勢も、詳しく日本に伝わっていたと考えられるのであって、支那(当時は唐)の北部が、またもや、今度は鮮卑に代わって突厥の沙陀族なる騎馬遊牧民に蹂躙される状態に陥ったことに改めて危機意識を掻き立てさせられた日本の支配勢力は、ついに、唐滅亡直前の寛平元年(889年)5月13日、私の言う桓武天皇構想に基づき、天皇家の一員たる平高望とその3人の男子達を上総に定着させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%AB%98%E6%9C%9B
突厥人の趙匡胤が960年に興した宋がその弟の趙光義によって979年に天下再統一を果たす
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
までの間・・天禄元年(970年)より前・・に、やはり桓武天皇構想に基づき、天皇家の一員の子たる源満仲を摂津国多田荘に定着させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E4%BB%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%BA%90%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%8D%98
それぞれ武士化させる段取りとなった、と、私は見るに至っています。(太田)

(続く)