太田述正コラム#3336(2009.6.15)
<皆さんとディスカッション(続x516)>
<けんちゃん>
 –鮮鉄の機関士–
 太田さまが78歳の日本語の堪能な韓国人に聞いた話は何時の事でしたか、実は私も同年代の78歳、若し今年のことであれば、その韓国人は終戦時14歳であったはず、たとえ5,6年前であったにしても、19,20歳で鮮鉄の機関士には到底為れなかったはずです。
 多分その韓国人の記憶違い若しくは、自分は他の韓国人とは異なり優秀な技術を持っていたとの自慢話をしたのではと考えられます。
<太田>
 私の体験談ではなく、あるサイトで発見した記述です。
 ちなみに、このサイトがアップされたのは、2001年9月24日です
http://www.furutachi-project.co.jp/sakka/got/index.html
から、その少し前の話でしょうが、当時78歳だったのですから、終戦の1945年には22歳くらいだったことになります。
 ご高齢の方とはいえ、少しはご自分で、コラム中で引用されているURLをクリックするなりして調べてから投稿なさってくださいね。
<Chase>(http://blogari.zaq.ne.jp/fifa/
 –新キーワード「天皇システム」について–
 「日本型経済体制」論―「政府介入」と「自由競争」の新しいバランス」(『日本の産業5 産業社会と日本人』(筑摩書房1980年6月)を読んでいたら、かってより温めていたあるキーワードを思い出した。それが標題の「天皇システム」である。太田述正氏の「属国論」、植田信氏の「不比等戦略」に及ぶべくもないが、・・・新キーワード「天皇システム」のお披露目といきたい。
 実は、このキーワード(の内容は)は、全くのオリジナルという訳ではない。実は、上田紀行(東京工業大学大学院准教授)氏が、15年ほど前、朝まで生テレビに出ていたときに言及していた内容を、私が、今、キーワードとして切り取ろうというものである。上田氏の発言をビデオには録画していないため、正確な表現は思い起こせないが、内容は直観的に記憶しているので、以下、説明したい。
 「天皇システム」とは、ある組織・集団等において、上位者から下位者までのヒエラルキーが存在する場合、下位者が、上位者の意向・気持ちを(尋ねることなく)すすんで推し量りながら意見を上へ上へと具申していくシステムのことである。ここで重要なことは、このような意思決定のプロセスから必然的に、最上位者の責任が発生せず空の存在に帰してしまい、責任の所在は、常に下位者へ流れるベクトルを有する。このシステムは、日本独自のものであり、東アジア諸国のどこにも見られないシステムである(典拠はっきりしないため、これから探します)。
 残念ながら、このシステムが発生してしまう理由は、今の私は快刀乱麻に説明できない。少なくとも最終的に仮定する先見的命題でないことは付言しておく。
 なお、参考までに、「天皇システム」を想い出した上掲論文「日本型経済体制」論―「政府介入」と「自由競争」の新しいバランス」の該当箇所を、先での同論文の論評の基礎作業として引用して記させていただく。日本型経済体制の特質の一つとして、「エージェンシー関係の重層構造」があり、同構造が有する日本的で特別な「依頼関係」の事例を挙げている箇所での記述である。
(引用はじめ)
市中銀行は政府の雇用安定策の意を汲み企業の倒産防止の監視を行い、課員は課長の意を汲み仕事に取組み、商社は顧客の意を汲み機器の性能等を指導する。
(『日本の産業5 産業社会と日本人』(筑摩書房1980年6月 58頁)
(引用おわり)
<太田>
 フォーマルな上下関係の下での日本型システムは、おっしゃるような意味での「天皇システム」と言ってもよいかもしれませんが、日本型システムは、事実上の上下関係の下、例えば、規制官庁と被規制業界/企業の関係においても成立しますし、全く対等の関係、例えば、商社とこの商社が扱う商品を製造している企業の関係においても成立することにご注意ください。
 ところで、そういえば、上掲論文では、「このシステムが発生してしまう理由」を説明してないんでしたね。
 私は、経済・経営用語で言うところの、個々人の目的関数(objective function)とリスク選好(risk preference)のばらつきが、日本人の間では、他国の人々の間ほどはないことが、その理由ではないかと考えています。
 ただし、これは、実証的検証が必要でしょうね。
<Chase>
 –日本の植民地統治(朝鮮半島)への謝罪問題について–
 日本の植民地統治への謝罪問題について、太田ブログで問題提起がなされていた。
http://blog.ohtan.net/archives/51376324.html
 太田述正氏が留保する?くらいだから、本件はよほどデリケートな問題だといえるだろう。
 謝罪問題ということは責任問題と言い換えられる。<私>の立場を簡単に紹介したい(なんてこと言って今考えているだけだが)。
 あたりまえのことだが、政治的責任、法的責任、道義的責任の観点から考えるのが定石だ。
 これらをごちゃごちゃにするから訳がわからない無意味な激論を繰り広げることになる(すみません)。
 とりあえず朝鮮半島についての範囲で言及する。政治的責任については、いわゆる政治決着(政府対政府)は、日韓基本条約ですでに図られたことは言うまでもない。このことに関する毀誉褒貶・・例えば、
http://www.geocities.com/deepredpigment2/dnchon6_018.html
や、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84
・・はググれば多数あるが、概括的な本責任問題とは次元が違うため省略。
 法的責任は、戦争犯罪については、当時は一つの国であったため、当然ながらBC級戦犯(朝鮮半島の国民に対する)がいるわけではなく対象外の問題であるが、この決着自体、朝鮮半島国民からすればやるせないものだろう。
 日本側からすれば膨大なBC級戦犯処刑の事実が、対朝鮮半島の国民には無意味なものになっていることがもどかしい。
 政治的責任、法的責任は一応解決は図られているとはいえ、すっきりしたものとはいい難く見直し論もでてきているが(上掲URL参照)、少なくとも今から日本で戦争責任に関する裁判を再開することが非現実的なことから、あくまで日韓基本条約の修正路線での収束を図る他ないであろう。
 道義的責任は、簡単に解決はできない。少なくとも朝鮮半島の国民が被った塗炭の苦しみに対しては、機会があるごとに謝罪はするべきである。
 現在の謝罪行為は、すでに決着が一応付いている(交渉時点で謝罪は表明)政治的・法的責任に対してしているのではなく、道義的責任についてのものと考えるべきである(他の責任とごっちゃにするから何だかよくわからなくなる)。
 いつまで謝罪ということは何ともいえないが、少なくともわだかまりが解消するのは、最低、第二次世界大戦の記憶を有しない世代が完全にいなくなるまでは必要である。
 かまびすしい歴史認識は、上の三つの責任、特に道義的責任と絡む難しい問題だ。
 日韓併合に関する保守層の基本的考えは、当時の国際情勢(ロシアの脅威)から韓国併合はやむを得なかったとするものである。
 このことを言いかえれば、その時はそれしか方法がなかったという意味になる。
 一方で、イタリアの哲学者のクローチェ(Benedetto Croce。1866~1952年)は、「すべての歴史は現代史である」と主張した。太田ブログでも
http://blog.ohtan.net/archives/50954223.html
で引用されている。太田ブログでの文脈とは違うが、「すべての歴史は現代史である」説は、いわゆる「賢者の後知恵」と繋がる考え方だ。
 歴史認識は結局、「歴史における(その時点では最高と思えた)判断」か、「賢者の後知恵」が正しいかということになる。
 前者は歴史を細かく調べれば調べるほど与したくなる考えであり、保守派にとり魅力的?なイデオロギーであるが、責任追及力が弱まる大弱点を持っている。
 歴史の発展なんていうのは陳腐な表現であるが、少なくともそのことを求めていくならば、残念ながら前者の立場に安住すべきではない。
 つまり、揶揄するための呼称?である「賢者の後知恵」に、歴史認識は拠る他ないのである。
 そこで重要な思考実験として、もし、20世紀の初頭に、当時の桂太郎、伊藤博文をはじめとする日本の為政者が、タイムマシンで、敗戦から21世紀の今日の風景までを総覧できたとして、1910年をもう一回やり直すことができるとしたら(もちろん、桂らだけでなく、今我々が行い得る)、韓国併合を行ったであろうか。行わなかったことであろう。
 朝鮮半島への軍事支援に留めながら、極東情勢を管理するという判断を為すに違いない。
 であるなら、韓国併合は誤りであったとの断を今日下さざるを得ないし(このことと政治的責任は基本的に無関係)、その前提で、朝鮮半島国民に対しては、道義的責任についての謝罪が今後も必要だ。
 そのことこそ、「すべての歴史は現代史である」という考え方を実践することになる。
<太田>
 「朝鮮半島への軍事支援に留めながら、極東情勢を管理する」ようなオプションは、当時の日本にはなかったのでは?
 日本が朝鮮半島を併合しなければ、(李氏)朝鮮ないし大韓帝国は政争に明け暮れ、自前で富国強兵ができず、早晩ロシアの保護国になるか併合されていた可能性が大です。
 そして、満州もロシアに併合され、ロシア革命以降は支那と朝鮮半島が全面的に共産化することにあいなったに相違ありません。
 やがて、支那と朝鮮半島は、ロシア(ソ連)からの自立を果たすことになったでしょうが、朝鮮半島全体が金王朝的なものになって、この金王朝的なものと、(台湾を領有した)日本が鋭く軍事的に対峙することになったのではないでしょうか。
 韓国が戦略的緩衝地帯として確保されている現状の方が、これよりはマシだと私は思うのですが、いかがでしょうかね。
<おさ>
 TBSの「報道特集」で、元自衛隊の将官が、つぎはノドンの発射ではないかと言っていましたが、イスラエルと違い日本は自前の報復能力を持っていないので、もしノドンを撃ち込まれた時、米政府から米国債の大量購入などを持ちかけられても、断れませんね。
 自前の軍事力を持たないと、何かある度に交換条件を突きつけられても、呑むしかないですね。
<太田>
 特定の軍事的脅威が生じようが生じまいが、属国(保護国)というものは、宗主国の重要な利害にかかわる要請には従わざるをえない存在なのです。
<サヨク>
 以前「現代芸術の誕生」について言及されてました。「芸術は性衝動の変形された発露」であり、やがてそこから「乖離し素材化」していった・・・云々。
 ぼくは、シェーンベルクを初めて聞いた時のある種の開放感を時々思い出そうとする。
 音楽に限らず文学も絵画も対象(例えば音、あるいは単語、または色)を要素(素材?)にまで解体することによって、各要素は等価になり、再構成する時の可能性が拡大する。
 「紋切り型」のパッセージの羅列にウンザリしていた当時のぼくにはそこに開放感を感じたのかもしれない。さて今夜は、ベルクの「バイオリン協奏曲」聴きながら寝ようっと!
<太田>
 これ↓ですね?
Alban Berg violin concerto
http://www.youtube.com/watch?v=-xtiBEc4RUc
http://www.youtube.com/watch?v=Romh5ZstUpA&feature=related
 ベルクのピアノソナタもいいですね。
Berg – Piano Sonata Op.1, Glenn Gould
http://www.youtube.com/watch?v=3WZf9VbPKsM&feature=related
 昨日紹介したこの曲↓がリンク切れになっていたので、少し演奏に難があるけど、これ↓でどうぞ。
glinka sonate for viola &piano
http://www.youtube.com/watch?v=NZ_y8-pDT58&feature=related
<ΑφΑφ>(「たった一人の反乱」より)
≫あんましビビっと来ない曲です。彼の曲なら、まだ「In the Mist Im Nebel」ってピアノ曲の方がいいですね。≪(コラム#3334。太田)
 春樹の教養…文学、映画、音楽とも中途半端でセンス悪いよ。
 俺がオータンを信頼する一つの証が春樹批判しているというとこだな。
 これだけで「似非」ではないって感じがするよ。
<太田>
 彼の作品、碌に読んだことないけど、文学者としての能力、そして読者のニーズを見きわめる能力はすごいんじゃないのかな。
 彼の「思想」は買ってませんが・・。 
 村上春樹についての現在の現象について、朝鮮日報が「・・・ある国を代表する作家が、作品で「代表」の役割をきちんと果たし、読者がその作家にふさわしい部数で応える出版・読書文化は実にうらやましい。・・・」と変な感心をしてますよ。
http://www.chosunonline.com/news/20090614000022
 記事の紹介です。
 朝日、シーラカンスに戻っちゃったな↓。
 それに、「何ができるかを考えたい」に主語がないねえ。
 「船舶検査<に関し、>・・・そもそも憲法9条の下で、どのような国連決議があっても、日本が自国の防衛以外の目的で軍事力を行使することはあってはならない。そうした大原則の下で、今回の決議を有効にするために何ができるかを考えたい。・・・」
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
 北朝鮮の核問題を今夜の非公開コラムでとりあげます。
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太田述正コラム#3337(2009.6.15)
<北朝鮮の「核」をめぐって(その1)>
→非公開