太田述正コラム#15106(2025.8.3)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その23)>(2025.10.29公開)


[趙孟頫]

趙孟頫(ちょうもうふ。1254~1322年)は、「南宋の第2代皇帝孝宗の同母兄の趙伯圭の玄孫<。>・・・妻の管道昇も画家として有名で・・・<画家の>王蒙は外孫にあたる。・・・
 至元23年(1286年)、元の世祖皇帝クビライが在野の遺賢を招聘しようとした時、侍御史の程鉅夫の推薦で招かれて大都に行き、元に仕えた。このときも一悶着があり、御史中丞から「この者は滅ぼされた宋の旧皇族です。陛下のお側におらせてはいけませんぞ」と奏上があったという。世祖は押し切って近侍とした。宋を滅ぼした元朝に仕えたことは一族からも批判され、一族の縁を切った者さえいたという。詔書を書かせると世祖が思った通りの素晴らしい出来栄えだったため、更に抜擢して刑法の議論をさせたがそこでも頭角を現し、「まだ若い南人ごときが、我がモンゴル帝国の法が分かるはずがない」と難詰する人間をも論破して黙らせてしまったため、更に抜擢されて兵部郎中となった。その後も元王朝の官僚として活躍し、経済官僚として世祖からも重用された。
 経済官僚としての業績は至元27年の減税と・・・経済を牛耳っていた権臣で丞相の・・・サンガ<(注66)>誅殺があげられる。・・・この時、世祖から中書政事(宰相代行)を打診されたが固辞している。・・・

 (注66)?~1291年。「ウイグル人あるいはチベット<たる>人仏教徒(ラマ教)出身。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC_(%E5%85%83)

 以後、世祖が崩じた後も四人の皇帝に仕え、集賢院や翰林院の学士となり、大元政府内の長老として重んじられた。・・・
 王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提供した。書は王羲之を越え<た。>・・・
 <また、>画風においては、文人画を復興し、元末四大家を指導した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%AD%9F%E9%A0%AB
 管道昇(かんどうしょう。1262~1319年)は、「<春秋戦国時代の斉の政治家>管仲の子孫の家系とされる・・・墨竹画史の上でも傑出した人物である 。また、元朝において広く知られた詩人でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E9%81%93%E6%98%87

⇒趙家がもともとはテュルク系だとすれば、同家がついに完全に漢人化していなかったのではないか、と、思わせるような趙孟頫の生涯だ。(太田)

 「・・・太宗期を中心に進められた・・・包括的改革は、唐代中期に始まる社会変革の総仕上げともいうべきものとなった。
 その間の制度変化<は、>・・・貴族の没落と科挙官僚の台頭、皇帝権強化(官僚・軍隊の権限分散)、府兵・防人制から募兵による更戌制<(注67)>への軍制変化、均田・租調役制から私的土地所有を前提とする両税法への税制変化、流通経済に依拠する専売制の導入などが挙げられる。

 (注67)「宋<は、>・・・更戌(こうじゅつ)法を定め、藩鎮(節度使)を解体し、その兵力はすべて禁軍が吸収。また藩鎮が掌握していた行政権や財政権は中央が送り出す文官に役目を順次交代させた。」
https://xn--mprwb863iczq.com/%e5%ae%8b%e3%81%ae%e5%bb%ba%e5%9b%bd/

 またこの期間には文化面でも貴族文化が退場し、新興士大夫や庶民の文化が台頭した。
 中国史上屈指のこうした大変革は「唐宋変革」<(注68)>と呼ばれる。」(103)

 (注68)「大正時代に内藤湖南が提唱し、その後の日本の東洋史学界に大きな影響を及ぼしている。・・・
 南宋時代には華南の経済が急速に発展して江南地域の水田が大規模に開発された。経済の発展で人口が急増し、宋の時代に世界で初めて人口1億人を突破する国家となった。農地面積が4倍近くに増加した。稲の品種改良や麦と稲作の二毛作、稲作の二期作が登場した。
 宋代に絹織物産業と製紙及び木版印刷など手工業が発達した。・・・
 首都が開封に置かれたのは洛陽や長安のような伝統的な政治都市よりも物流の中心となる商業都市を宋王朝が重視するようになったためであった。宋代の経済面の特徴は、商品経済と都市の発達である。
 紙幣や信用証券が登場し、市場経済の発達に拍車をかけた。宋銭が日本やアジアとの朝貢貿易などで広く流通した。・・・
 宋朝は閉鎖的な和平外交の国家となった。傭われた兵による常備軍の動員が優先された。君主独裁体制を強化して殿試・文治主義の手法が導入された。両税法は土地私有や私有財産制を大幅に認めたところに新しさがあった。・・・
 羅針盤の発明により、航海技術が大きく向上した。
 火薬を用いた武器も発明され、それらはのちに南宋を併合したモンゴルによる征服活動とともに西洋にもたらされた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%AE%8B%E5%A4%89%E9%9D%A9

(続く)