太田述正コラム#15108(2025.8.4)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その24)>(2025.10.30公開)
⇒羅針盤については、「方位磁針の原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃から<支那>国内で使われていた。指南魚を水に浮かべることで、現代の方位磁針とほぼ同様の機能を実現する。・・・方位磁針の改良によって航海術は著しく発達し、大航海時代が始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
というのですから、羅針盤は、私の言う、拡大春秋戦国時代に支那で発明されたわけであり、唐宋変革期に発明されたかのような「注68」は語弊があり、火薬については、「唐代(618年 – 907年)[の850年頃]に書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
http://koukisya.web.fc2.com/kayaku1.htm ([]内)
とはいえ、それは、「不老不死の薬を得ることを目的にした製薬作業・・・<たるところの、>道教の思想から発生した・・・練丹術の過程から誕生した。」(上掲)ものであり、殺傷(戦闘)目的とは正反対であるところの、長寿を目的とするものであったところが、いかにも、漢人文明化した鮮卑たる唐にふさわしい発明でした。
しかも、「1132年に金との戦争中に起きた内乱に対して火薬兵器である火槍を宋が投入したとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
ところ、これは、黒色火薬の爆発的燃焼効果を用いただけであって、銃が発明されたのは元においてで(上掲)、兵器として有効な小銃であるアーキバスは1411年頃の欧州において生まれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%90%E3%82%B9
結論的に言えば、唐宋変革と言っても、稲作を中心とする農業の生産性の向上と水田等の面積の拡大によって、支那の人口は大いに増えたけれど、軍事軽視/緩治という基調に変化はなく、ために、宋/南宋は、相対的に圧倒的に少ない人口と経済力しかなかった遼/金を打倒できず、その後、殆どなすところなく元に征服されてしまい、その結果として、漢人文明は技術革新力を失い、経済も停滞することとなった、というわけです。(太田)
「・・・<北宋第6代皇帝>神宗の抜擢を受け、・・・1069年、参知政事<(注69)>に任命されると、王安石<(注70)>は・・・あまたの制度改革を具体化していく。・・・
(注69)「宋代においては宰相職である同中書門下平章事の補佐」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E7%9F%A5%E6%94%BF%E4%BA%8B
(注70)1021~1086年。「慶暦2年(1042年)、22歳の時に4位で進士となる。・・・嘉祐3年(1058年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。・・・熙寧2年(1067年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる翰林学士に抜擢され、更に熙寧4年(1069年)には副宰相となり、政治改革にあたることになる。・・・熙寧5年(1072年)には首席宰相となり、本格的に改革を始める。・・・
熙寧7年(1074年)に河北で大旱魃が起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后高氏・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。・・・翌年に王安石は復職するが、息子の王雱の死もあり王安石の気力は尽きて熙寧9年(1076年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。ただ、王の引退後も神宗の意向で新法継続がなされて「行財政改革」に関してはほぼ当初の目的を達成してはいる。しかし、元豊8年(1085年)に神宗が死去し、翌年には王安石も死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%89%E7%9F%B3
新法のなかでも、農村で民兵組織を編成し治安維持に当たらせる保甲法<(コラム#14108)>や、軍馬を農民に飼育させる保馬法<(コラム#14108)>は、・・・軍事費の圧縮を目指すものであった。
前者は金のかかる募兵への依存度を下げることができ、後者は非効率な官営牧場での軍馬飼養を民間委託に代替するものだ<った>。
ただ、前者は民兵が任に堪えるほどの戦力たりえず、後者は平時に農耕転用されてしまうことが軍馬に悪影響を及ぼすなど・・・、マイナス面と背中合わせの経費節減策であった。」(108~109)
⇒王安石による改革は、ここまでだけでも、宋・・さしあたりは北宋だが、要は南宋も含め・・の滅亡を予感させるところの、軍事軽視の極致、と言ってもよさそうです。(太田)
(続く)