太田述正コラム#15122(2025.8.11)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その31)>(2025.11.6公開)
「江南の豊かさを農業生産とともに支えたのが商業だった。・・・
宋は・・・戦闘がからきしダメだった。
対外戦争の経験に乏しい宋軍は、弱体化しつつあった契丹にも勝て<ず、>・・・1122年の契丹征圧は、金が事実上単独でなしとげることとなった。」(118、122)
⇒「対外戦争の経験に乏しい」とか「戦闘がからきしダメだった」という表現に、丸橋の軍事無知ぶりが露呈しています。
漢字文明において、軍事力の整備・維持を基本に据えた国家運営を行わない、つまり、簡単に言えば軍事軽視が組み込まれていること、が問題なのです。(太田)
[北宋から南宋へ]
「靖康元年(1126年)、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛<(注91)>・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜(注92)>が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。
(注91)1103~1142年。「元々は豪農の出<。>・・・南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、・・・宰相の秦檜に謀殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B3%E9%A3%9B
(注92)しんかい(1091~1155年)。「科挙に合格<。>・・・金が北宋を滅ぼし、華北統治のために張邦昌を首領に据え傀儡国家の楚を創ろうとした際、秦檜は反対したとして、同じく反対した他の朝臣と共に粘没喝の軍に北へ連れ去られた。その後、他の宋旧臣は各地へ連行されたが、秦檜のみは厚遇を受けている。
建炎4年(1130年)、秦檜は金から解放されると、南宋の高宗の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜びを表し、即日礼部尚書とした。
翌紹興元年(1131年)、秦檜は宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して金との交渉を担った。・・・
主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢するという、屈辱的な内容の和議を結んだ(「紹興の和議」)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%AA%9C
「秦檜らは懸案であった軍事全権の皇帝帰属を一気に実現させ,さらに42-50年,南宋全土の土地測量事業(経界法)を実施し,戦乱で破壊された支配機構を整え,南宋政権の基礎を固めた。・・・
死後は中華思想,民族主義の立場から,民族の気節を失った売国奴と規定され,評価はよくない。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%A6%E6%AA%9C-81356
張邦昌(ちょうほうしょう。1081~1127年)は、「進士出身で、・・・靖康元年(1126年)、金軍が首都の開封に迫った時に康王趙構(後の南宋の高宗)とともに金軍の人質となり和解条件を整えて帰還するが、主戦派の弾劾を受けて左遷される。靖康2
年(1127年)、戦いが再開されて結局開封は占領され、太上皇徽宗と欽宗をはじめ、数多くの皇族や官僚たちが連行された(靖康の変)。金軍は傀儡として異姓の賢人を立てて旧北宋領を統治させる方針を立て、張邦昌を「大楚皇帝」に擁立した。名目上の首都は、金陵(現在の江蘇省南京市)に定められた。しかし金軍が撤収すると、張邦昌は帝位を放棄し、哲宗の皇后で廃位されていた孟氏(元祐皇后)を迎えて尊奉し、自身を太宰として事務を管掌した。
同年5月、孟氏による垂簾聴政の形式を整え、その指名の形で康王趙構を皇帝に擁立させた。これにより、楚は32日で滅亡した。その後、張邦昌は高宗のいる応天府に出頭した。高宗は張邦昌を許すつもりで太保・同安郡王としたが、宰相の李綱が張邦昌の処刑を強硬に主張したため、彼の身柄は潭州に安置され、尚書省の監視を受けるようになった。9月25日には詔書が下され張邦昌を自殺させた。
張邦昌の廃位後、金朝は代わって劉豫を擁立し、同じく漢人を皇帝に戴く傀儡国家の斉を建て、引き続き旧北宋支配地域の間接統治を試みていくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%82%A6%E6%98%8C
和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。
秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年/1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙眘(孝宗)が即位した。南宋と金は隆興2年(1164年)に和平を結んだ(隆興の和議)、または乾道の和議とも言う)。
金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%8B
⇒科挙が、張邦昌や秦檜のような、人格、識見とも優れた官僚を生みだしていたことは分かるが、いかんせん、軍事的な教育訓練を受けているとも思えない岳飛のような人物が、軍人として大活躍するようでは、宋の再興どころか、屈辱的な不平等条約の下、南宋は、自らを維持するのがやっとという死に体で再出発し、当然のこととして滅亡が運命づけられたというわけだ。(太田)
(続く)