太田述正コラム#15134(2025.8.17)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その37)>(2025.11.11公開)
「・・・宋代にお<いて>・・・田地を所有し税役を満額負担するのが・・・主戸(しゅこ)・・・田地を私有せず(多くの場合は他者の田土を小作しつつ)税役を一部のみ負担するのが・・・客戸(きゃくこ)<だ。>・・・
南宋の統計では主戸が70~80%、客戸が20~30%であり、自作農中心の構成だった。・・・
<また、>この時代の生産関係は、しばしば「地主-佃戸<(注104)>(でんこ)・・・(小作人)・・・制」と呼ばれる。・・・
(注104)「<支那>において,一般的用語としては小作人を意味し,漢代豪族の大土地所有の耕作者にまでさかのぼることができる。西晋(3世紀半ば)以降,佃客の呼称もあらわれるが,なお主家の家籍に付けられていて家内奴隷に近かったらしい。佃戸が基本的な生産の担い手として土地制度史上重要になってくるのは宋(10世紀)以後で,均田制にかわって私的大土地所有が発展,佃戸制が普及した。・・・
益租と定額租があり,だいたい収穫は5対5で配分されたが,耕牛や灌漑用具などを地主から借りると,地租は6割以上にも達した。副租として薪米鴨鶏なども要求された。凶年や端境期,冠婚葬祭など不時の出費にも地主から〈倍称の息〉といわれる高利の借金をし,地主への隷属を強め,債務奴隷化するものもあった。刑法上も格差があり,佃戸の地主に対する犯罪は,北宋中期で一般人より1等重く,南宋初には2等重い刑が科され,身分的にも〈主・佃の分〉ありとされた。南宋になると,両浙地方(江蘇省南部・浙江省)を中心に頑佃抗租(がんでんこうそ)とよばれる運動が起こり,佃戸は横の連帯をもって小作料不払い運動を展開した。15世紀半ば,福建地方に起こった鄧茂七の乱は,<支那>史上はじめて佃戸が起こした農民反乱で,以後,明・清期を通じて抗租運動が広範にくりひろげられる。明・清時代には,浙江・福建地方を中心に佃戸の永小作権が成立し,一田両主制が普及してきた。佃戸の刑法上の格差も消滅し,佃戸の地位は上昇した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%83%E6%88%B8-102292
鄧茂七の乱 (とうもしちのらん)<は、>・・・明代の1448年から49年にかけて、福建省を中心に起こった農民反乱。その指導者が鄧茂七であったのでこの名がある。福建は大部分が山地であるが、気候が温暖なので、狭小の平野部では唐末(10世紀)以来、中原からの移住者が増加し、農業が発達した。明代になると、租税の銀納化が進む一方、農民もサトウキビ、茶、藍、茘枝(れいし)、紙、葛布(くずぬの)などの商品作物を栽培し、商品生産を展開した。そのため商人層による農民支配がいっそう強まり、彼らによって佃戸(小作)制に基づく大土地所有が発達した。彼らの多くは不在地主であり、佃戸は高い小作料を自ら地主のもとへ運ぶほか、冬牲(とうせい)という副租(ふくそ)(薪、米、鶏、鴨など)を納め、さらに不在地主が納めるべき租税、徭役の一部をも負担した。一方、・・・一攫千金をねらう坑首(山師)らは流民を糾合して盗掘(非公認の銀採掘)を行ったため,政府との間に武力闘争が絶えなかった<ところ、>・・・<農民支配をしていた商人層>は治安対策上、・・・無頼(ごろつき)<を集めて>・・・総小甲(そうしょうこう)制という自警団<を>組織<し>ていたが、鄧茂七はその組織の総甲として衆望を集めており、佃戸の要望を代表して冬牲の廃止を主張してそれを実現させた。さらに小作料を地主側からとりにくるよう要求したが、1448年、地主側は官憲と結んで武力でこの要求を抑えようとしたため、茂七は自ら「剗平(さんぺい)王」と称し、当時銀山開発をめぐって明朝の国家統制に反抗していた鉱山労働者の武装集団とも連絡をとって反乱を起こした。この反乱は<支那>史上初めて佃戸層が主導権を握り、農民的要求を掲げて戦った闘争で、後の抗租運動の歴史的先駆として高く評価されている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%84%A7%E8%8C%82%E4%B8%83%E3%81%AE%E4%B9%B1-339
「鄧茂七・・・は、・・・江西省建昌(現在の南城県)出身で元々は小作農であったが、のちに福建省へと移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E8%8C%82%E4%B8%83
「抗租運動(または単に抗租)<は、>・・・奴隷身分の解放闘争である「奴変」、都市下層民の反権力闘争である「民変」と並んで、民衆の成長をしめす動きであった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-082.html
「その後、小作人は地主の土地所有権を認めて穏当な小作料を支払うかわりに、土地の使用権を譲るように主張した。要求が容れられない場合、小作人は土地を占拠して小作料の不払いという手段を往々にして採用した。こうして大量の田畑で「一田両主」という現象が発生した。清代になると江蘇省・浙江省・福建省・江西省・広東省・広西省・湖南省の各地で地主と「二地主」(使用権を持った小作人)との土地権利をめぐる争いは常態化するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E7%A7%9F%E9%81%8B%E5%8B%95
<但し、>第一に、・・・農村内で多数を占めていたのは一貫して小農民であり、大土地所有者のプレゼンスを過大視できない。第二に、地主の所有地は広い範囲に断片的に散在する場合も多く、一円的な大土地経営を行いえた地主は一部に留まっていた。第三に、ひとくちに佃戸といっても地主に緊縛される隷農のような存在はごく一部で、いくばくかの自作地を有する自小作農もいれば、移動の自由を妨げられない雇用契約のようなケースも多く、地主への隷属度は一様ではなかった。第四に、地主の地位は、士大夫や富商と同様、家産均分慣行ゆえに不安定だった。彼らもやはり、経営の多角化(官僚の輩出、商業への進出など)によって地位の保全を目指したが、何世代にもわたって勢力を維持できる者は限られて
動画 http://www.ohtan.net/videoいたのである。・・・」(146~148)
⇒鄧茂七の乱は、北宋の時の方臘の乱のように宗教がらみではない点は評価できるものの、方臘の乱と同じ頃(1120年代)に起きた(水滸伝の元ネタの)宋江の乱
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-071_2.html
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%8B%E6%B1%9F-89280
同様、無頼達が率いる、思想性に乏しい反乱であった点をくさすべきか、日本の土一揆のような条件闘争であった点を捉えて褒めるべきか、判断がむつかしいところです。(太田)
(続く)