太田述正コラム#15136(2025.8.18)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その38)>(2025.11.12公開)
「1276年に杭州が陥落すると、最大の海軍基地を喪失した南宋は急速に衰える。
南に逃れた亡命政権は、「アラブの大富豪」にして泉州市舶司の長官でもあった蒲寿庚<(コラム#14112)>(ほじゅこう)を頼り、泉州を拠点に反撃に出ようとした。
ところが政権側が蒲寿庚の資産を強制徴発しようとしたことから両者に溝ができ、蒲寿庚はモンゴルに寝返ってしまう。
多くの資産と船舶、人員を掌握する彼の転身が致命傷となり、南宋は福建を放棄して、終焉の地広東へと逃亡を余儀なくされた。
「海の力」に依拠してきた南宋の末路を象徴する事件であった。
以上のように南宋は、一、海域諸国の朝貢によって中華王朝としての面目を保ち、二、経済基盤を海域諸国との通商に置き、三、国防の柱を海軍力に据えていた。
こうした国際政治面、経済面、軍事面のありようから、南宋は「海上帝国」と称される。・・・
両宋交替期、大陸が混乱していた期間には、日本僧の入宋が一時期減少傾向になったが、11世紀半ばに台頭した伊勢平氏の日宋貿易により、両国の関係は再び緊密になる。
南宋から日本には、銅銭や陶磁器、絹織物、書籍などがもたらされ<(注105)>、日本からは硫黄や木材が輸出された。・・・
(注105)「日宋・・・貿易は朝鮮半島の高麗を含めた三国間で行われ、日本では越前国敦賀や筑前国博多が拠点となった。博多には鎌倉時代に多くの宋人が住み、国際都市となった。・・・
<但し、>日宋間で公的に国交を結ぶことはなかった。・・・
南宋の成立は、日宋貿易にも影響を与えることになった。華中・華南の経済的発展に加えて、金の支配下に入った華北・中原から逃れてきた人々の流入に伴う南宋支配地域の急激な人口増加によって、山林の伐採に伴う森林資源の枯渇や疫病の多発などの現象が発生した。前者は南宋における漢方医学の発展を促して最新の医学知識や薬品が日本へと伝えられることになり、鎌倉時代後期のことになるが梶原性全が宋の医学書を元に『頓医抄』を編纂し、吉田兼好が『徒然草』(120段)の中で「唐の物は、薬の外に、なくとも事欠くまじ」と述べているのは、裏を返せば日宋貿易なくして日本国内の医業が成り立たなかったことを示している。・・・
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。 平治の乱の直前の1158年(保元3年)に平清盛は大宰大弐に就任し(赴任せず)。1166年に弟の平頼盛が慣例を破り大宰府に赴任、大宰府・博多と日宋貿易の本格的な掌握に乗り出す。貿易は平氏政権の盤石となり、平氏の栄華は頂点を極めることとなる。日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握し、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。
1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、博多を素通りさせ、福原大輪田泊まで交易船が直輸した。
宋との「公式」な交易のため、宋の明州(現在の浙江省寧波市一帯)知州から方書・牒書が後白河法皇と清盛宛てに送付され、藤原永範が返書し、後白河法皇と清盛が進物した(「乾道九年始附明州綱首以方物入貢」『宋史』)。この時清盛は既に入道しており、仏門として宋の地方長官と「公式」な交易を行うが、中国(皇帝)と日本(天皇)の正式な国交および交易(すなわち朝貢貿易)ではない、とする何とも苦肉策であったが、両国の方針に沿ったものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
平氏の成長は、南宋が建国当初の混乱を乗り越え、海洋立国への傾斜を強めていく過程と軌を一にする現象であった。」(155、157)
⇒丸橋が日本と南宋の貿易で、木材に触れて薬に触れなかったのは片手落ちです。(太田)
(続く)