太田述正コラム#15146(2025.8.23)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その43)>(2025.11.17公開)
「「軍に入れば食いっぱぐれがない」の道理でひきよせられ入隊したアウトロー、という点では賊軍の兵士も官軍の兵士も変わりがない。
「パッケージはまるで違うのに、成分は同じ」なのである。
官軍の兵士とてその出自は農村からあぶれたごろつきに他ならないから、「募兵=職業兵士」だからといって近代国家における志願兵制のような高士気・高練度のプロ兵士などでは全くない。
「良い鉄は釘にならない、良い人は兵にならない」という俗言に表れているように、「武」は常に卑しまれる(尚(とうと)ばれるのはもちろん「文」)。
それが中国の伝統的価値観だったのである。・・・
⇒そうなってしまった原因がまともに書かれていないので、(常識的な話ではあるけれど、)唐突感が否めません。(太田)
歴代王朝は安定期以降になったころから決まって弱兵ぶりをさらけ出す。
それは、専制国家の組織論理が、「内部に芽生える攪乱要因の除去」を、対外防衛より優先させるからである(この発想は、共産党の掃討を対日防衛より優先させた蒋介石の「安内攘外」論のように、近代になっても根強かった)。
⇒説明になっていません!(太田)
(注111)「蔣介石率いる国民党は、中央政府としての足場を固めつつあったが、方針を異にする軍閥や毛沢東・・・率いる中国共産党(以下、中共という。)と激しい勢力争いが続いていたため、「安内攘外」政策をとり、中国国内を統一するまで海外との軋轢の回避に努めていた。特に日本に対しては、抗日運動の禁止や「中日親善ブーム」演出といった政策を実行し、日中の貿易額が増大していた時期であり、外交・国内政策を駆使して日中対立の先鋭化を防いでいた。その間に、国内を統一し、国力を向上させた後、権益の回収や不平等条約の撤廃といった外国勢力の駆逐を目指していたのである。」
https://www.mod.go.jp/asdf/meguro/center/img/11_syoukaiseki1.pdf
政権中枢と前線軍・地方軍の相互不信は構造的なものであり、後者の制御に失敗すれば北魏の六鎮(りくちん)、唐の安禄山、明初の朱棣(永楽帝)、明末の呉三桂のように政権に致命的なダメージを与えるが、成功すればしたで、「杯酒釈兵権」<(注112)>の北宋や、岳飛を誅殺した後の南宋のように国防上の戦力ダウンを招きかねなかった・・・。
(注112)「宋の太祖は・・・、前王朝の元皇帝を優遇し、また功臣の粛清も一切行わず、彼らを平和的に引退させた(<が、このことを、支那>では<、>「杯酒釈兵権」杯酒もて兵権をとく、と言う)。」
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/asahi20200625.html
封建社会(日本や西欧)や部族社会(中央ユーラシアの遊牧国家)であれば、集団の基礎単位が軍団に由来するため、「武」の組織論理を柱に国家機構をくみ上げることは難しくない。
しかし「文」を軸に編成された中華帝国において、「武」は官僚制の枠組みで処理されるにとどまり、武力そのものについては制度化の契機すらも備えていなかったかのごとくである。」(169~171)
⇒どこまで行っても、説明になっていません。
漢人文明の諸統一王朝はその全てが、そしてそれ以外の諸王朝も殆ど全てが、どうして、「封建」時代や「耕戦の士」時代に戻そうとしなかったか、を説明しなければならないというのに・・。(太田)
(続く)