太田述正コラム#15156(2025.8.28)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その3)>(2025.11.22公開)

 「・・・農耕・遊牧境界地帯(「農牧接壌地帯」とも呼ばれる)の考え方については、日本では妹尾達彦<(注4)(コラム#13632、13728)>が提唱し、石見清裕<(注5)>や森安孝夫<(コラム#13632、13694、13706、13716、13720~(シリーズ)~13758)>らが議論を深めた。・・・

 (注4)1952年~。立命館大文(史学)卒、阪大博士課程後期単位取得退学、陝西師範代卒、北海道教育大(釧路港)助教授、筑波大歴史・人類学系助教授、陝西師範代客員教授等を経て、中大文教授、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E9%81%94%E5%BD%A6
 (注5)いわみきよひろ(1951年~)。早大商卒、同大第二文学部東洋文化専攻学士入学、同大院修士、覇あk背後期課程単位取得退学、同大博士(文学)、同大教育学部助教授、同大教育・総合科学学術院助教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E6%B8%85%E8%A3%95

紀元前3世紀、中国の戦国時代末期から秦統一にかけての時期に、東胡・匈奴・月氏の3つの遊牧勢力が鼎立していた。
 このなかから匈奴に英主冒頓単于(在位前209~前174)が登場し、国内の部族集団を統合したうえで、東胡と月氏を破り、史上初めてモンゴル高原の草原地帯を統一する。・・・
 <そして、>奇しくも紀元前3世紀末という同時期に、匈奴と秦がモンゴル高原と中国をそれぞれ統一し、遊牧王朝と中国王朝という2つの異なる類型の王朝の基本型が出現し、紀元前2世紀以後は匈奴と漢の南北に大王朝が対峙する構図となる。・・・
 <その後、>中国本土の歴史は、狩猟民・遊牧民の軍事力を中核とする王朝国家の支配と多様な人間集団の混淆がきわめて頻繁にみられるもの<とな>ったのである。・・・
 近年の研究の進展により、北魏政権の中枢は、遊牧王朝としての性格がこれまでの想定以上に色濃かったことが明らかになってきている。
 というのも、最近あらたな石刻史料の出土があいつぎ、北魏の歴史を記す正史『魏書』<(注6)>から知り得なかった史実が明らかになってきたからである。

 (注6)「構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。・・・
 北斉において編纂されたため、東魏・北斉を正統な後継者としている<。>・・・
 正統王朝を曹魏 – 西晋から北魏に直接繋いでおり、南朝はもちろん一時的に華北を統一した前秦の正統性も認めていない。むしろ、匈奴の漢の劉淵・後趙の石勒は、西晋の天下を乱した元凶として槍玉に挙げられている。
 劉裕の漢王朝の末裔とする主張を認めない。国号「宋」も認めずに「夷楚」と蔑称で呼ぶ・・・。
 南朝の人物は愚か者ばかりであると口を極めて罵倒しており、列伝第八十五の末尾の史評では「(夷楚たちは)窮凶極迷にして天下の笑いと為る。其れは夷楚の常性か?」と人種差別的な主張まで行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8

 それとともに、6世紀半ばの北斉政権で魏収<(注7)>(ぎしゅう)が『魏書』を編纂するさいに、平城時代の北魏の鮮卑に由来する習俗・制度にかんする記事を意図的に削除した可能性が高いことも分かってきた。」(13、18~20、29)

 (注7)「北魏の節閔帝の時期に散騎侍郎となり、起居注(皇帝身辺の記録)を管掌した。その後、修国史・中書侍郎となる。北魏末より、東魏・北斉の詔書の多くには、魏収の文が採用され、律令の改修や礼典の整備にも功績を残したとされる。温子昇・邢卲と共に「北地三才」と称された。
 北斉の建国後は、中書令・著作郎となる。551年(天保2年)、北魏史の編纂を命じられ、554年、『魏書』130巻を著し奏上した。しかし、魏収の撰した『魏書』は、編纂にあたって自分の意見に従う者だけを史官として任命したことや、敵対した者をことごとく貶め、記述に公平さを欠くことなどから、評判はすこぶる悪く、「穢史」と称されたりもした。また、自らの才覚をたのみ傲慢であったことや、南朝梁に使者として赴いた時、迎賓館に妓女を連れ込んで南朝梁側の顰蹙を買ったり、「驚蛺蝶(蝶々漁り)」とあだ名されるほどの好色な面や、権力者に平気でこびへつらったなどのことから、批判を受けることが多々あったという。『魏書』編纂によって人々の怨みを買ったため、577年に北斉が滅亡すると、墓が暴かれ、遺骨は外に棄てられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%8F%8E

⇒魏収が鮮卑系なのか漢族化した鮮卑なのか、余り考えられないけれど漢族なのか、定かではありませんが、彼、阿Qのプロトタイプと形容して良さそうな人物ですね。(太田)

(続く)