太田述正コラム#15160(2025.8.30)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その5)>(2025.11.24公開)

 「事実、・・・8世紀前半に遊牧王朝の突厥第二可汗国<(注11)>で書かれた突厥碑文によれば、古代チュルク語で唐のことを拓跋が訛った「タブガチ」と呼んでいた。

 (注11)東突厥は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力。これに対し、西側の勢力を西突厥という。
 東突厥は大きく分けて3つの時期に分類でき、1つ目が第一可汗国期、2つ目が羈縻政策期、3つ目が第二可汗国期となる。744年、最後の東可汗が回紇(ウイグル)によって殺されると、東突厥の旧領は回鶻可汗国に取って代わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%AA%81%E5%8E%A5

 草原の遊牧民のあいだでは、唐朝は「拓跋」だと認識されていたのである。
 北魏が柔然を攻撃したあと、中央ユーラシアは多極化の局面となった。
 5世紀末に柔然が弱体化するなか、テュルク系遊牧民の高車が興ってアルタイ・天山方面に勢力圏を形成し、西トルキスタンのエフタルとともに、6世紀半ばにかけての中央ユーラシアは三国が並び立つ状況となった。
 これを一変させて、中央ユーラシアをそれまでにない規模で統合したのが突厥(「テュルク」の漢字音写)であった。・・・
 モンゴル高原に突厥という強大な遊牧王朝が出現したことは、隣接する華北の情勢におおきな影響を及ぼした。
 おりしも華北では、六鎮の乱のあと北魏が分裂して、北斉と北周が東西に対峙して争っていたところであった。
 それゆえ、両国ともにモンゴル高原の東突厥を味方につけて優位に立とうと、争って貢ぎ物を献じ、実質的には東突厥の属国となった。

⇒当時の東と西を合わせた突厥の領域は、ずっと後の時代のチンギス・ハーンの征服領域並みの広大さであることから、チンギス・ハーンの一代での「偉業」をあまり特別視する必要はなさそうです。(太田)

 東突厥の優勢は、その内紛および北周にとってかわった隋が中国を統一したことで失われる。
 東突厥の啓民可汗<(注12)>は、南モンゴルに本拠を遷して隋に服属した。」(35~36)

 (注12)けいみんかがん(?~609年)。妻の一人に隋の安義公主、彼女が亡くなると、隋の義成公主が妻の一人になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E6%B0%91%E5%8F%AF%E6%B1%97
 義成公主は、「隋の皇室との親族関係は不詳である。・・・啓民可汗が亡くなると、レビラト婚に基づいてその子<・・自分の子ではない・・>の始畢可汗に嫁いだ。・・・後に始畢可汗が逝去すると、<やはり自分の子ではないと思われる>その<更に>弟の処羅可汗に嫁<ぎ、この>処羅可汗が逝去すると<やはり自分の子ではないと思われる>その<更に>弟の頡利可汗の妻とな<る。>・・・
 李淵が中原を制覇して、唐の時代を迎え<、>・・・煬帝の皇后であった蕭皇后が孫の楊政道と突厥に逃れると、彼女はこれを受け容れた。以後、彼女は夫の頡利可汗を唆して、唐と幾度も争った。
 630年、太宗李世民は、武将の李靖に1万騎を授けて突厥討伐を命じた。激戦の末に頡利可汗は捕虜にされ、義成公主は処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%88%90%E5%85%AC%E4%B8%BB

⇒義成公主の事績は、一見おどろおどろしいけれど、彼女自身も鮮卑なわけですから、突厥の風習なんぞは勝手知ったるところであり、簡単に馴染めたに違いないと想像されます。(太田)

(続く)