太田述正コラム#15168(2025.9.3)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その9)>(2025.11.28公開)

 「・・・ユーラシア東方から強大な政権が消滅した情勢を利して、9世紀末から10世紀初頭にかけて台頭した新興勢力が、北モンゴルと中国本土のはざまにいた契丹<(注21)>であり、その建国を導いたのが耶律阿保機<(注22)>である。・・・

 (注21)「契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔<。>・・・『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。・・・
 5世紀に至って人口が増え、北魏の北方を侵すようになった。5世紀半ばから、北魏に朝貢し、交市を行うようになった。479年、柔然と組んだ高句麗の侵略を怖れ、北魏に来降し、白狼水(今の大凌河)の東岸一帯に移り住んだ。この時の人口は、1万余人であったと伝えられる。6世紀に入っても、北魏への朝貢は絶えなかった。553年には、北斉の国境を侵して文宣帝に敗北し、部族の大部分が捕らえられて、諸州に分置される。残った部族もまた、突厥に攻められ、高句麗を頼っていった。・・・
 6世紀末〜8世紀には、西は老哈河から東は遼河・南は朝陽までの地域に住み、北斉に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部(構成部族)が連盟を結び、紇使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は、八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
 (注22)872~926年。在位:907~926年。「渤海遠征を終えて帰還中に・・・死んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E5%BE%8B%E9%98%BF%E4%BF%9D%E6%A9%9F
 「渤海<は、>・・・靺鞨族の大祚栄により建国され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
 「靺鞨<は、>・・・ツングース<(女真)>系農耕漁労民族。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8

⇒鮮卑の隋/唐帝国が倒れた後、混乱期を経て、漢人の宋と広義の鮮卑たる契丹による南北時代が始まった、ということになります。
 なお、契丹とツングース系の人々は密接な関係があったわけです。(太田)

 早い時期の中国史料では北周を建てた宇文部(匈奴系)の別種だったとされるが、契丹人自身は、のちに建国の過程で、かつてモンゴル高原に大帝国を築いた鮮卑の檀石槐<(コラム#15042)>の後裔であることを標榜している。・・・

⇒上掲邦語ウィキペディアは「宇文部の出自は匈奴であり、1世紀に北匈奴が後漢に敗れて西に逃れた際、これに従わずに漠北に留まった部衆がその起源といわれる。その後、彼らは東へ逃れて鮮卑族と雑居するようになり、やがて同化していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%96%87%E9%83%A8
とし、また、下掲邦語ウィキペディアは「匈奴系鮮卑の宇文部」としており、そのリーダーの出自でしか判断できず、それも容易ではないことは想像されるけれど、古松の、宇文部を匈奴系と断定するような書き方はいかがかと思います。(太田)

 幽州で安禄山が台頭すると、契丹・奚<(注23)>は必ずしも一枚岩ではなく、安禄山のもとに投降してその軍団に組み込まれる者たちもいた。

 (注23)「遊牧狩猟民族であり、他の遊牧騎馬民族同様、馬・牛・黒羊・豕を飼い、車上氊帳暮らしで、移動しながら暮らしていた。また、不潔であるが射猟が得意で、略奪を好んだという。賦税はない。五代十国時代になると、農耕も兼業で行うようになる。・・・
 庫莫奚および奚の起源は匈奴系鮮卑の宇文部であるという。344年2月、前燕の慕容皝が宇文部大人の逸豆帰を攻撃し、逸豆帰は慕容皝に敗れて遠く漠北に逃れ、そのまま高句麗に逃げた。この時、松漠の間に逃れた勢力が庫莫奚となった。・・・
 遼の時代<には、>・・・奚族から后族の蕭氏が出て、遼の歴代皇后を輩出している。・・・
 遼の滅亡後、奚族の一部は耶律大石に従って西遷し、西遼の建国に参加した。金の領内に残った奚族は女真に同化し、あるいは漢族と同化したとみられる。西遼の奚族はしだいにイスラーム化していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%9A

⇒契丹と「兄弟関係」になった奚がツングース(女真)系の人々と同化した、ということは、契丹もまた、ツングース(女真)系と同化できるくらい親和性があったことを意味します。(太田)

 そして、安史の乱が勃発したことで、唐による契丹・奚にたいする羈縻支配は終わり、乱の鎮圧後はウイグルに服属するようになる。
 一方、安史軍団に組み込まれて河北に移った契丹人は、唐代後期の河朔藩鎮で軍事力の一翼をになうことになる。」(64~65)

(続く)