太田述正コラム#15170(2025.9.4)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その10)>(2025.11.29公開)

 「・・・<耶律>阿保機<(注24)>の即位で注目すべきは、遙輦氏の阻午(そご)可汗が制定したという柴冊(さいさく)儀と呼ばれる即位儀礼をおこなっていることである。」(67)

 (注24)「天祐4年(907年)に唐は後梁(907年~923年)により滅亡させられました。ほぼ同時<の907年>に、耶律阿保機も長年仕えていた遙輦(ようれん)氏から独立して可汗になります。・・・
 耶律阿保機は6人兄弟であり、耶律阿保機は長男です。ところが次男から五男までが反乱を起こしたのです。加担しなかったのは、末の弟だけです。
 しかもこの反乱は1回だけではなく、3回もありました。何回許しても、すぐに反乱を起こす。イタチごっこの繰り返しでした。弟たちの反乱が鎮圧されたのは、契丹の・・・918年・・・でした。
 耶律阿保機は弟たちの反乱に悩まされている時に建国しました。国号は「契丹」と言います。「遼」になるのは少し後の話です。
 ・・・西暦916年のことです。
 ・・・926年・・・に・・・渤海国(698年~926年)を討伐しました。討伐は見事に成功して、渤海国は滅亡しました。耶律阿保機は渤海国に皇太子をのこして、東丹国と名前を変えて統治させました。
 ところが、帰路で病にかかり耶律阿保機は亡くなりました。享年55歳でした。」
https://hajimete-sangokushi.com/2019/04/06/%e8%80%b6%e5%be%8b%e9%98%bf%e4%bf%9d%e6%a9%9f-2/
 「遙輦氏<は、>阿輦 (あれん) 氏とも音写される。8世紀初め契丹族に阻午可汗 (そごかがん) なる者が現れ,部族を統一し,唐の支配を脱して統一部族にまとめ上げた。これがいわゆる遙輦氏契丹八部で,遙輦氏から選出された交代制の君長 (可汗) に統率される8部族の連合体であった。 10世紀初めに,耶律阿保機が現れて,この遙輦氏に取って代った。」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%99%E8%BC%A6%E6%B0%8F-145901

 契丹部族連合を構成する八部の長老が参加するこの儀礼は、合議により優れた人物をカガンに選び推戴するという遙輦時代以来の遺制にもとづくもので、阿保機の建国後も歴代皇帝に受け継がれていく。・・・

⇒金はさしあたり飛ばし、後金/清と比較して、この点では遼は見上げたものです。
 後金(清)は、3代目、数えようによっては初代の順治帝までは合議による推戴でしたが、その子の康熙帝の即位は、早くもこの順次帝による指名です(コラム#15005)。(太田)

 中央ユーラシアの遊牧王朝に共通する特徴として、複数の遊牧部族がそれぞれの集団のまとまりを保ちつつ連合する部族連合体をつくり、中核となる部族の指導者が君主となるという構造が挙げられる。
 指導力のある君主がいるあいだは部族連合のまとまりが維持されるが、もとより各部族の自律性が高いために、ひとたび君主の求心力が失われてしまえば、容易にばらばらになってしまう。・・・
 契丹国は、この・・・脆弱性を克服することに・・・「斡魯朶(オルド)」<(注25)>と呼ばれる制度<を導入することによって>・・・克服することに成功する。」(67、74)

 (注25)「契丹・蒙古などのモンゴル・テュルク系民族におけるカンや后妃の宿営地のこと。・・・オルドが歴史の上に現れるのは、遼の時代とされる。皇帝のもとに1つのオルドが設置され、これを維持するための州県や部族を附属させて、租税や兵士をもって奉仕した。皇帝の没後は后妃に引き継がれて皇帝の陵墓の警護・祭祀にあたった。また、后妃や皇太子が独自のオルドを有する例もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%89

⇒このような、オルドの捉え方は啓発的です。(太田)

(続く)