太田述正コラム#15174(2025.9.6)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その12)>(2025.12.1公開)

 「・・・李存勗<(りそんきょく)(コラム#13862)>が後梁を圧して華北に覇を唱えて以後、<彼が建てた>後唐<(こうとう)(コラム#13862)>にはじまる沙陀系王朝と契丹が対峙する局面となった。・・・
 <後唐4代目の李従珂を倒したところの、後唐2代目の李嗣源の女婿で後晋を建てた>石敬瑭は、<936年、契丹の耶律堯骨(やりつぎょうこつ)による>援軍の見返りとして契丹へ十六州から成る燕雲(えんうん)地区を割譲した。・・・
 そして、堯骨<(注29)>と石敬瑭は、<10歳も>年少の堯骨を父とする父子の契りを結んで擬制親族関係となった。

 (注29)「石敬瑭の死後の944年、第2代皇帝となった甥の石重貴(せき じゅうき)が堯骨への臣従を拒んだことで、契丹の大軍が再び南下することになる。
 947年正月、堯骨はついに黄河を越え、後晋の首都・開封に入城。
 こうして後晋はわずか11年で滅亡し、中原の心臓部が契丹の手に落ちた。
 堯骨は皇帝の儀礼をもって崇元殿に登り、漢人の百官から三拝九叩頭の礼を受けたという。
 この時、彼は一つの重大な決断を下す。
 契丹という遊牧民族の国名をあえて捨て、漢風の「大遼」へと改めたのである。
 これは中原に対する支配の正統性を内外に強く印象づける、象徴的な措置であった。
 遼は、<支那>史上最初の「征服王朝」とされる。・・・
 堯骨は「打草穀(だそうこく)」と呼ばれる物資収奪政策を採用し、米や家畜を容赦なく徴発させた。そのため中原の民衆は恐慌をきたし、各地で反乱が頻発した。・・・
 中原を席巻した征服王の死は、あまりにも唐突なものだった。・・・
 堯骨の遺体をその場で開腹し、内臓を取り出して塩に漬け、故郷まで搬送可能な状態に<された>。
 これは、彼らが北方の風土で培ってきた独特の葬制、すなわち「ミイラ化」であった。」
https://kusanomido.com/study/history/chinese/godai/105535/                                                    くわえて、お互いを皇帝として認め、北朝・南朝と呼び合った。
 後晋が契丹に毎年30万匹の絹を贈るとともに、両国間では定期的な使者の往来が行われるようになった。
 さらには燕雲地区の南側に国境線を明確に定めて、互いの逃亡者の受け入れは禁止した。
 これらは、いずれも11世紀初頭<、1004年>の契丹・北宋間の澶淵(せんえん)の盟の起源をなしたものとして重要である・・・。・・・
 北宋は一連の沙陀系王朝の後継王朝として現れたわけだが、・・・150年以上存続することができた。
 その最大の理由は、皇帝が軍事力を自己の手中に収めることに成功したことであった。

⇒しかし、収めただけで、その練度や兵力量や兵力当りの装備の質量を爾後も維持することはできなかったわけです。(コラム#省略)

 <ところが、>北宋太宗の二度にわたる北方遠征は完全な失敗に帰し、燕雲の地の回復はかなわなかった。・・・」(89、92~93、102)

⇒幸い、王朝滅亡は免れたのですから、この失敗経験を踏まえて、軍事力の維持・強化に着手すべきだったのに、北宋はそれを怠るのですから何をかいわんやです。(太田)

(続く)