太田述正コラム#15186(2025.9.12)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その18)>(2025.12.7公開)

 「・・・建国当初の金国では、皇帝を中心に、女真語で勃極烈<(注46)>(ボギレ)と呼ばれる官に任じられた按出虎水完顔部の皇族有力者との合議によって意思の決定がおこなわれていた。

 (注46)「勃極烈は君長を意味する女真語のbogileの音訳。1115年(収国1)建国の直後に阿骨打はそれまでの勃極烈制度を発展させて,皇帝に直属する国政の最高機関とし,・・・アンバン (諳班) ・・帝位継承者<を決め>る・・,グルン (国論) ,グルンアマイ (国論阿買) ,グルン (国論) 昃 (しょく) の4ボギレを設置した。・・・
 各勃極烈は合議を行って皇帝をたすけたが,行政や司法にも権限をもっていた。そののち勃極烈は改廃があいついだが,各勃極烈にはいずれも皇帝(完顔氏)の一族が任命されている。35年(天会13)官制の改革にともなって勃極烈制度は廃止された。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%BC%E3%81%8E%E3%82%8C-132654

 この段階では、皇帝は部族会議の主催者たる族長としての性格が色濃かった。
 また、按出虎水の本拠地<に>は・・・当初は宮殿がなく、天幕の中に暖をとる・・・オンドル・・・を設けて暮らしていた。
 阿骨打は、のちに燕京を占領したさいにも城内には滞在せず、契丹の天祚帝から奪取した皇帝専用の天幕(オルド)を燕京城外に立てて、そこで臣僚や外国使節を引見した。
 阿骨打は遊牧君主の契丹皇帝の後継者を自任していたようだ。・・・
 1120年までに金と北宋のあいだで契丹挟撃の密約に向けた具体的な協議がが重ねられ・・・<まとまりかけた時に>江南で・・・大叛乱が勃発し・・・たため、1121年、・・・北宋朝廷では、金との契丹挟撃作戦がいったん頓挫することになる。・・・
 1122年・・・挟撃作戦の協議を再開する<が、結局、>・・・金は北宋の力を借りることなく燕京の無血開城に成功し<てしまう。>・・・
 にもかかわらず、金は当初の約束を守って、翌年に・・・燕雲地方の<大部分を>・・・北宋に割譲することを認める。・・・
 その後、北宋は歳幣などを納めない<等、>、・・・金にたいする背信行為を重ねた。・・・
 <やがて、1127年の>靖康の変<で、>・・・160年あまりつづいた北宋はここに滅亡したのである。・・・
 <最終的に、>1138年末、<金と南宋>両国の第一次和議(天眷<(てんけん)>和議)<(注47)>が成立<する>。」(155、158~160、163)

 (注47)金の第三代皇帝の熙宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%99%E5%AE%97_(%E9%87%91)
によるところの、「華北の<金の>愧儡政権「斉」の廃絶と金への併合<が行われた後、>旧斉の大部分の領土返還を伴う<この>和議<が成立した。>」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=c2baee356d709bd09d3ce8430b6c75a83b0b62ec4f319fa24d610dfb7a144851JmltdHM9MTc1NjY4NDgwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e5%a4%a9%e7%9c%b7%e5%92%8c%e8%ad%b0&u=a1aHR0cHM6Ly9rYW5zYWktdS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvNTMyNC9maWxlcy9LVS0xMTAwLTIwMDUwNzMxLTAzLnBkZg&ntb=1
 「南宋の初代皇帝<の>・・・高宗・・・金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。紹興8年(1138年)、和平派を代表する秦檜を宰相に任用し、同年には金と和約を締結することになった<もの>。このため、主戦派である岳飛と秦檜の対立を生み、紹興11年(1141年)には岳飛が秦檜によって処刑されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97_(%E5%AE%8B)
 「天眷(てんけん)は、金の熙宗の治世で用いられた元号。1138年 – 1140年。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9C%B7

⇒金の熙宗(1119~1150年。皇帝:1135~1150年)は、「それまでの女真式の部族制国家から脱却、皇帝独裁の確立を目指して王朝の漢化が図られ、漢風の官制を導入<すると共に、>また中央集権化が進められ、華北の支配の強化なども行なっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%99%E5%AE%97_(%E9%87%91) 前掲
・・即位すぐの勃極烈制度廃止は象徴的だ・・ことから、金は、当時は特に平和志向的だったのだろう。(太田)

(続く)