太田述正コラム#15200(2025.9.19)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その25)>(2025.12.14公開)

 「オゴデイの死後10年ほど、モンゴル政権では内紛による混乱がつづいた。<(注61)>

 (注61グユク(1206~1248年。皇帝:1246~1248年)。第2代皇帝オゴデイの長男<で>・・・第3代皇帝<。>・・・
 ローマ教皇・インノケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士がこのグユク選出のクリルタイに参加し、その様子を教皇庁に提出した報告書『モンゴル人の歴史』に載せている。彼がグユクに謁見したのち手渡されたペルシア語による勅書が1920年にバチカン図書館で発見され、バチカン美術館に現存している(Letter from Güyük Khan to Pope Innocent IV参照)。・・・
 これは、インノケンティウス4世が1245年に発した教皇勅書『Cum non solum』(モンゴルの統治者のキリスト教への改宗及び、キリスト教徒の虐殺を止めるよう要求していた)への返事であった。グユクは、教皇およびヨーロッパの諸侯に対してモンゴルへ赴いて自身へ服従することを要求し、要求に従わないならば敵とみなす、と回答した。・・・
 グユク<は、>私領(ウルス)であるエミル・コボク地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した<が、>・・・1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で急死した。この崩御は、かねてからの酒色で健康を害したための病死といわれている。しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケ(トルイの長男)の生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥ(ジョチの次男、ジョチ家二代目当主)への討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある。
 グユクの崩御後、その皇后であったオグルガイミシュが摂政監国として国政を代行した。しかし、(モンケら)トルイ家の王族達およびバトゥ(ジョチ家)はオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。
 バトゥは独自にクリルタイを開催し、オゴデイ家・・・はこの動きに抵抗したが、・・・モンケがバトゥの支持を得て第4代カアンとして即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A6%E3%82%AF

 そのあとを受けて1251年に即位したのがトルイの子のモンケ<(注62)>(憲宗、在位1251~59)である。・・・」(191)

 (注62)1209~1259年。「もともと、祖父チンギス・カンの死後は、末子相続に従ってトルイがモンゴル皇帝(カアン)になるはずであったが、トルイが固辞したため、その息子であるモンケを新たなカアンとして擁立する約束があった。・・・オゴデイは生前、1236年に南宋遠征中陣没した嫡出の三男クチュの遺児シレムンをオゴデイ家の後継者として決めていたという。そのため次期皇帝はこのシレムンかトルイ家の長男であるモンケを望んでいたと伝えられ、<トルイの母の>ソルコクタニ・ベキやモンケなどトルイ家の側にその旨内々に約束していたという(ただし、この逸話はトルイ家が権力を掌握した後世の創作である可能性も指摘されている[要出典])。それらの約束もあり、さらに智勇兼備の名将であったことから、周囲からもオゴデイの後を継ぐ皇帝に望まれた。
 1241年、オゴデイが死去したため、本来ならばシレムンかモンケが後を継ぐはずであったが、オゴデイの皇后であったドレゲネの政治工作で、オゴデイとドレゲネの間に生まれた長男のグユクが後を継ぐこととなってしまった。・・・
 あわや内戦になりかけたが、即位2年後の1248年にグユク<が>病死した。・・・
 <そして>、1251年7月1日、・・・クリルタイにおいて、モンケは・・・モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン)として即位した。・・・
 次弟であるクビライを漠南漢地大総督に任じて南宋攻略を、三弟のフレグを征西方面軍の総司令官に任じてイラン方面を侵略させた。1258年にはアッバース朝を滅ぼしている。・・・
 しかし、晩年のモンケは有能な次弟クビライの存在を恐れて、これを一時的に更迭するなどの猜疑心深い一面があった。このためもあって南宋攻略は遅れ、これに苛立ったモンケは1258年、自身の実力に恃んで軍を自ら率いて四川方面から南宋攻略を目指し、帝国諸軍に先行、突出して侵攻したが、その途上、翌年7月末に重慶を攻略した後、合州の釣魚山の軍陣内でにて急死した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B1

⇒繰り返しになりますが、これだけモンゴル側が機能不全に陥っていて、しかも、彼らがその間も、膨張戦争にあけくれていたというのに、南宋は、漫然と手をこまねいていて、軍事力の強化に努めるのを怠ったわけです。(太田)

(続く)