太田述正コラム#15242(2025.10.10)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その13)>(2026.1.4公開)

 「・・・嘉慶<(注23)>・道光<(注24)>の父子2帝も、父祖3代の例に漏れず、聡明かつ良心的、善政につとめた君主で、庶政に意欲的なとりくみをみせている。・・・

 (注23)1760~1820年。皇帝:1796~1820年。「乾隆60年(1795年)、85歳の乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝は太上皇となっても実権は手放さなかったため、嘉慶帝は飾り物の皇帝に甘んじた。
 乾隆帝が嘉慶4年(1799年)に崩御すると、嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣ヘシェン(和珅)を誅殺した。周りの人間全てがヘシェンのことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは信任し続けたため、乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、ヘシェンは国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。ヘシェンから没収した財産は、実に国家の歳入の10~15年分に当たったといわれている(当時の清は世界のGDPの3割を占めており、ヘシェンは世界最大の富豪だったことになる)。
 乾隆中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。嘉慶帝はこれを修繕しようと試みたが、あまり芳しい結果は得られなかった。この頃の<支那>の人口は、100年前が2億ほどだったのに対して、4億を突破していた(全体的にみれば比較的平和な状勢が続いたこと、この頃に新大陸原産の作物であるトウモロコシやサツマイモおよびジャガイモ、落花生などが導入され、農業生産とカロリーベース食料自給率が伸びたため)。しかしその一方で、農業耕地はわずか1割ほどしか増加しておらず、必然的に1人当たりの生産量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E6%85%B6%E5%B8%9D
 (注24)1782~1850年。皇帝:1820~1850年。「武勇に優れており、皇子時代、天理教徒の反乱(癸酉の変)時に紫禁城に踏み込んだ反乱軍を自ら討伐している。
 嘉慶年間よりイギリスからのアヘン密輸が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもその害は甚だしかった。またアヘンの輸入増加により、それまで清の大幅な黒字だった対英貿易が赤字に転落し、国内の銀が国外へ流出することで国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の三貨制度と同様に銀貨と銅銭が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われ、銭貨で見ると実質的な増税となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%89%E5%B8%9D
 「天理教<は、>・・・白蓮教徒の乱(1796年-1804年)が鎮圧された後に、その残党により結成された。教祖は郜生文(八卦教の分派の離卦教の開山祖師の郜雲隴の末裔)である。1813年、林清らが北京及び河南省で蜂起したが、3カ月で鎮圧された(天理教徒の乱・癸酉の変)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

 「団連」・・・は、いわば軍事を地元民間の中間団体に委託した方法である。
 こうした方向が以後の漢人統治の主流になってきた。
 白蓮教との乱の20年ほど後、陶樹<(注25)>が手がけた改革もそうである。

 (注25)1778~1839年。「湖南省安化県の人。林則徐らとともに道光帝から信任を得て地方行政の改革を進めた官僚の一人である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%BE%8D

 従前の塩の専売法が機能せず、不法な取引が増えて税収が落ちこんだため、非合法だった零細な民間業者に徴税を委託したところ、税収が伸びて大きな成果を収めた。
 こうした方式を「票法」という。」(124、126)

⇒なまじ、名君が続いたことが、国制の抜本的改革を妨げてしまったと言えそうですね。
 道光帝に至っては武勇にまで優れてしまっていたことが、国制中の軍制の抜本的改革を妨げてしまった、とさえ言えそうです。(太田)

(続く)