太田述正コラム#15244(2025.10.11)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その14)>(2026.1.5公開)

 「督撫<(注26)>重権を創始し、そのリーダーとなったのは、湘軍を作った曾国藩<(注27)>である。

 (注26)<支那>における地方行政の高官である総督と巡撫の総称である。撫督とも書く。
 清の場合、総督は数省の軍政を統轄する長官であることが多く、巡撫は多くは一省の内政を担当し、戦時には軍隊を動かすこともできた。総督は巡撫と職権上重複することが多く、互いを監視し牽制できるようになっていた。
 清では巡撫は一省を担当するが、総督は隣接する数省を担当する。が、総督にも四川総督、直隷総督など一省だけを担当するものもあれば、山東省のように巡撫だけを設けて総督を置かないものもある。督撫の役割は似たようなもので、地方の民政、司法、軍隊を管轄する。その区別はただ官位(官職級)が異なるだけで、総督と巡撫もお互いに隷属関係にはないが、職能的には監督し合っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E6%92%AB
 (注27)1811~1872年。「湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。・・・
 同治7年(1868年)、清朝に仕える漢民族としては初めて、地方官としては最高位に当たる直隷総督となった。・・・
 曽国藩は文人としても一流であり、その作品は『曽文正公全集』・『曽文正公手書日記』に纏められている。また朱子学者としても著名であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD%E8%97%A9

 しかし<督撫重権を>活用したのは、必ずしもかれではない。
 その高弟・李鴻章<(注28)>(1823~1901年)である。・・・

 (注28)1823~1901年。「父が進士だったことから、幼少期から一族の期待を背負い勉強に励み、道光20年(1840年)に科挙一次試験に合格、4年後の道光24年(1844年)に二次試験の郷試も合格した。更に父の友人だった曽国藩の門下生となり勉強に一層励み、道光27年(1847年)の会試も合格し進士となる・・・。翰林院入りしてからも曽国藩との師弟関係は続き、彼の下で庶吉士・編修と共に順調に出世階段を昇っていった。・・・
 太平天国の乱<で、>・・・曽国藩の幕僚として湘軍に属していた時期は官僚としての下働きのみであり、目立った活躍は見られない。しかし曽国藩は李鴻章の才能を認めていて、湖南省出身が多い湘軍で孤立しがちな李鴻章に協調を重視して厳しく接したり、軍務に携わらせ修養に心を砕き、将来は一軍を率いる将へ成長させることを友人の胡林翼に書き送っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%B4%BB%E7%AB%A0

 李鴻章と淮軍は北京の外港にあたる天津を本拠に、富裕な江南デルタをもあわせ掌握して、人口の稠密な沿海地域の治安維持にあたった。
 淮軍は義勇軍で、李鴻章の私兵同然であるにもかかわらず、さながら国防軍的な地位をしめ、清朝第一の精鋭として存続した。・・・
 かれは西洋近代の兵器・装備・技術を高く評価し、自軍に積極的にとりいれ、軍需工業と関連事業を創設、推進した。
 いわゆる「洋務」である。・・・
 李鴻章とその事業には敵対者が多い。
 頭から外国・西洋を蔑視、憎悪する郷紳ら攘夷論者が典型である。
 大多数の漢人官僚はそうした在地有力者を兼ね、かつ背景としていた。
 儒教の通念でいえば、軍事・武力は忌むべきものであり、しかも「外夷」の西洋人とつるむなど汚らわしく、「中華」のエリートの風上にも置けない。

⇒「道教と儒教の軍事思想には根本的な違いがあります。道教は戦争を避けることを重視し、戦略的思考においても自然との調和を考慮しますが、儒教は戦争を避けるためには、倫理的な基盤を強化しつつ、実際の統治手段としての役割を重視します。この違いは、戦争に対する根本的なアプローチの違いを示しています。
 具体的に言えば、道教は戦争の避け方や戦略を重視し、心理的な側面を考慮しながら戦場に臨むことを奨励します。一方、儒教は戦争を社会の一部として位置付け、戦争を通じていかに国民の道徳を高めるかに焦点を当てます。
 このような違いは、両者の文献や教えの中で明確に表れています。道教の典籍には、戦争を避けるための智慧や戦術が示されている一方で、儒教の文献には、倫理的なリーダーシップや官吏の役割が強調されています。」
https://alachugoku.com/44382
ということを踏まえれば、岡本は道教と儒教を取り違えているのではないか、と、言われても仕方ないでしょう。(太田)

 それが一般の輿論だった。
 そんな李鴻章とかれの事業を庇護したのが、西太后である。
 政権安定・権勢保持に有利と判断し、四半世紀にわたって首都に近い天津から手放そうとしなかった。
 李鴻章と督撫重権は西太后、ひいては清朝にとって、なくてはならない存在となっていたからである。」(141、143~144)

⇒「洋務運動は経済活動とリンクさせずに朝廷の事業としてのみ実施された例が多く、持続的な発展を欠いた。そして1895年の日清戦争の敗北により挫折が明白となる。
 清朝の敗北は、西太后が行っていた頤和園の再建と拡張に伴う莫大な浪費(日清戦争の総費用の約3倍にも上る)のために北洋艦隊の予算を大幅に削ったこと、海軍衙門の予算を内務府へ数百万両も流用したこと、西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費(日清戦争の総費用の2倍以上)をさせたこと等を背景に、北洋艦隊・海軍衙門の予算が不足し、艦船の操練が遅れ、設備の更新等も行われなかったことが主要因とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E
といったことに照らせば、「西太后が李鴻章・・・の事業を庇護した」とは言えそうもありませんが・・。(太田)

(続く)