太田述正コラム#15250(2025.10.14)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その17)/清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その1)>(2026.1.8公開)

 「・・・毛沢東らは・・・文化大革命<を>・・・発動した・・・当初、攻撃のターゲットだった劉少奇らに「実権派」「走資派」というレッテルを貼った。・・・
 これだけなら、権力争奪の戦術にすぎない。
 また文化大革命の本質も、おそらくそうだった。
 しかしそれよりはるかに重要なのは、その戦術に呼応して出現し、凶行のかぎりをつくしたおびただしい紅衛兵が登場した現象、またその動きが一向に収束しなかった過程である。 
 ・・・紅衛兵とかれらを供給する下層の人々が、上層のエリートをここまで敵視できたのは、本質的に外者・敵対者だったからである。
 空間的にいっても、ごく大別して、エリートを輩出したのは富裕な都市であり、農村出身の下層民とは隔絶していた。
 二元構造の社会のなさるわざである。

⇒富裕な都市においても、隔絶こそしていなかったかもしれないけれど、二元構造はあった筈です。
 また、私は、文革での毛沢東の狙いは人間主義の普及の加速化にあった、と、見ているところです。(コラム#省略)(太田)

 そうして二元構造を一元化すべく、下層が上層を撃滅するのが、けだし毛沢東のとなえた「階級闘争」「社会主義」なのであり、かれ自身にとっては、その構図は国共相克の時期から、おそらく一貫して変わっていない。
 確かに後世からみても、劉少奇らの政策は毛沢東の意に反して、「社会主義」化すべき「中国」を二元構造の旧社会に回帰させる方向性を有していた。
 それを否定して社会の一元化を達成するには、上層エリートの存在もろとも否定すればよい、とみなし、そのまま実行に移して、紅衛兵の動員・跋扈におよんだのであろう。
 かくて文革は惨憺たる結果に終わり、とりわけ経済の落ち込みが著しかった。・・・
 「社会主義市場経済」は権力と民間が役割を分担した点で、毛沢東が克服できなかった二元構造の社会構成にみあう体制だったといってよい。
 それなら、旧来の上下乖離・二元構造に根差す特質・弊害も、また免れなかった。
 いまはそれをたとえば「格差」や「腐敗」と呼んでいる。」(184~187)

⇒そういう身も蓋もない総括の仕方はいかがなものでしょうか。
 そんな調子では、私のような、資本主義化と並行して儒教の再評価や日本文明総体継受政策を行って、日本文明の継受に努めている、といった視点は出てくることはないでしょうね。(太田)

(完)

     --清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その1)--

1 始めに

本シリーズと明日から始めるKindleの英語本のシリーズとを交互に配信することにしました。
 理由は、少なくとも私の頭の中では両者が関係していると共に、英語本シリーズだけを続けることが読者の負担になり過ぎることを回避するためです。
 さて、清水廣一郎(1935~1988年)は、「東京外国語大学外国語学部イタリア語科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。増田四郎門下。東京教育大学文学部講師、同助教授、広島大学総合科学部助教授、同教授、東京都立大学人文学部教授。1982年『中世イタリア商人の世界』でサントリー学芸賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%BB%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
という人物であり、今回取り上げる本は、1989年に洋泉社から出版されたものの2021年の講談社学術文庫版です。
 やや古い本ということになるけれど、私がネットであたる典拠から、この分野でのその後の研究の進展があれば、それらをある程度反映できると思います。

2 『中世イタリアの都市と商人』を読む

 「・・・フレデリック・C・レーン<(注1)>に「保護費用」に関する一連の論文がある・・・。

 (注1)Frederic C. Lane(1900~1984年)。コーネル大卒、田伏大修士、ハーヴァード大博士、ミネソタ大講師、ジョンズ・ホプキンス大講師、助教授、准教授、教授、名誉教授。専攻はヴェネツィア共和国史。米歴史学会会長、米経済史協会会長、米国際経済史協会会長、等を歴任。「1980年に・・・イタリアの文化と歴史に顕著な貢献をした非イタリア人学者に毎年授与される国際ガリレオ・ガリレイ賞を受賞し・・・1984年にフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ財団の国際賞を受賞した」
https://jmedia.wiki/%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2580%2581%25E3%2583%2595%25E3%2583%25AC%25E3%2583%2587%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2583%25E3%2582%25AF+C./Frederic_C._Lane

 その主張を要約すれば、商業を考える際には、・・・関税や賄賂、あるいはその他の費用・・・<すなわち、>保護費用・・・が権力者に支払われねばならないというのである。・・・
 したがって、ポルトガル人がケープ航路を開拓し、<インドの>カリカット<(注2)>から直接に香料をリスボンに輸送したとき、地中海商人の受けたショックが大きかったことはうなずかれる。・・・

 (注2)Calicut。コーリコード(Kozhikode)の旧称。「大航海時代の頃、ムスリム商人がカレクーと呼んだ寄港地で、旅行家イブン・バットゥータも立ち寄っている。1407年には、明朝の鄭和がコーリコード(古裏)に寄航している。1498年、アフリカ東岸のマリンディを出発したヴァスコ・ダ・ガマが来航し、その後、オランダやイギリスが支配した。インド綿織物の輸出港として知られ、キャラコの語源ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89

 このような「保護費用」の安さによる経済的利益を、レーンは・・・Protection Rent・・・というはなはだ翻訳困難な名称で呼んでいる。」(9)

(続く)