太田述正コラム#15254(2025.10.16)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その2)>(2026.1.10公開)

 「・・・ポルトガル船隊がアラブ海軍を打ち破った有名なディウ沖(北西インド)の海戦<(注3)>(1509年)は、まさにポルトガルのケープ航路の利益を確保するために行われた軍事行動であった。

 (注3)「ディーウ沖海戦(第2次チャウルの戦い)は、1509年2月3日にインドのディーウ港の近くのアラビア海で、ポルトガル海上帝国と、オスマン帝国とヴェネツィア共和国の支援を受けたグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝(ブルジー・マムルーク朝)、カリカットの領主ザモリンとの間で起こった海戦である。・・・
 戦いの後、ポルトガルはゴア、スリランカ、マラッカ、ホルムズといったインド洋沿岸の重要な港を急速に占領していき、エジプトのマムルーク朝やグジャラート・スルターン朝を無力化して、ポルトガル海上帝国の発展をおおいに助けた。オランダ・ポルトガル戦争の間と1612年にスワリーの戦いでイギリス東インド会社がポルトガルに勝利するまで、ポルトガルの貿易における優勢はほぼ一世紀にわたって維持され続けた。これはアジアにおける植民地主義の始まりとなった。また、キリスト教徒とイスラム教徒の権力闘争が、当時最も国際交易で栄えた地域である地中海、中東及びその周辺、インド洋内に広がったことを示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A6%E6%B2%96%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
 「ディーウ(・・・Diu)は、インドの西部、グジャラート州のアラビア海に突出するカーティヤーワール半島の南端に位置する小島。・・・
 1535年にバハードゥル・シャーがムガル帝国の脅威から防衛する為にポルトガルと同盟し、ポルトガルはディーウに要塞(ディーウ城)を建設した。・・・
 1554年にはポルトガルがグジャラート・スルターン朝(ムザッファル・シャーヒー朝)からディーウ島の統治権を手にいれディーウはポルトガル領となった。
 1961年にインドに返還されるまではポルトガルの飛び地領土、ポルトガル領インドの一部だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%A6
 「チャウルの戦いは、1508年にインドのチャウル港で起きたポルトガルとエジプトのマムルーク艦隊との海戦。戦いはマムルーク側の勝利で終わった。これは、インド洋でのポルトガル海軍最初の敗北だった。・・・
 ヴェネツィアはポルトガルとの外交関係を破り、インド洋のポルトガル勢力に対抗する方法を求めて、エジプト宮廷に大使を派遣した。ヴェネツィアは、ポルトガルとの競争に勝つためにエジプトの関税引き下げについて交渉するとともに、ポルトガルに対抗するための「迅速かつ秘密の策」を提案した。カリカットの支配者であるザモリンも、ポルトガル人に対抗するための助力を求める大使を送り込んできた。
 マムルーク朝には海軍力はほとんどなかったため、船を建造するために黒海から木材を調達する必要があった。だがその約半分がロードス島の聖ヨハネ騎士団によって妨害されたため、スエズで建造された船は計画よりも大幅に少なくなった。エジプトに到着した木材はその後、ラクダに乗せられて陸上を運ばれ、ヴェネツィアの派遣した船大工の監督下でスエズでの造船に使われた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%AB%E6%B5%B7%E6%88%A6
 「チャウル(・・・Chaul)は、ポルトガル領インドのかつての都市であり、現在は廃墟となっている。インド西部のマハーラーシュトラ州、ラーイガド県にあり、ムンバイの南60kmに位置している。・・・
 18世紀初頭にムガル帝国の勢力が衰退すると、マラーターはインド中西部での支配圏を・・・チャウル<等に>・・・拡大した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%AB

 こうして、ケープ航路による香料輸送を定期的に行うために、ポルトガルは植民地や補給基地を確保し、軍事力をもってそれを維持せざるをえなくなった。
 これは膨大な資金をともなう「保護費用」の投下ということを意味する。
 この費用は、もちろん、香料貿易の利益の一部が充てられることになるわけで、その結果、ポルトガルが15世紀末から16世紀初頭にかけて享受したプロテクション・レントの幅が急速に減少することになってしまった。
 こう<いうわけで>、ポルトガルの香料貿易の独占は、・・・長くは続かなかった。
 およそ1520年ごろから、地中海の香料貿易は目覚ましい復活をとげ、北西ヨーロッパ向けの香料貿易は、その後約半世紀の間、イタリア商人とポルトガル商人との間で二分されていたといわれる。
 伝統的なインド商人=アラブ商人=イタリア商人の連携は、強い抵抗力をもち続けていたといえよう。」(10)

⇒ポルトガルの海外雄飛は、エンリケ航海王子(1394~1460年)に始まるわけですが、チャウルの戦いで、聖ヨハネ騎士団が、東ローマ帝国「領」であったベネツィアではなく、ポルトガルの側に立ったのは、エンリケが(聖ヨハネ騎士団の仲間であるところの、)「テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者」であったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B1%E8%88%AA%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E5%AD%90 ←事実関係
が大きいのでしょうね。
 それにしても、キリスト教、就中カトリシズムは、軍事や商売にどっぷりつかっていて、悍ましい限りです。(太田)

(続く)