太田述正コラム#15266(2025.10.22)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その5)>(2026.1.16公開)
「・・・状態は、16世紀を迎えるとともに大きく変化した。
まず、西地中海においては、1492年のグラナダの陥落とともにいわゆるレコンキスタ(キリスト教徒によるスペイン統一の運動)が完成し、スペイン勢力が西地中海に大きく進出することになった。
一方、東地中海においては、オスマン・トルコが進出し、1453年のコンスタンティノープル陥落以降、バルカン全域へとその勢力を拡大した。
メフメット2世(征服王)の晩年1480年には南イタリア・ブーリアのオトラントをトルコ軍が占領するという事態<(注8)>も生じた。
(注8)「オトラントの戦いは、1480年から1481年にかけて南イタリア、アプリア地方の都市オトラントをめぐって戦われた、オスマン帝国とナポリ王国<、>・・・アラゴン王国<、>・・・ハンガリー王国<、>・・・との間の戦闘である。・・・
陥落後の市内では徹底した略奪が行なわれ、生き残った男性市民は奴隷としてアルバニアへ送られた。オトラント大主教ステファノ・アグリコリら主だった聖職者たちは大聖堂で殺され、ステフェン・ペンディネッリ司教と守備隊長フランチェスコ・ラルゴ伯に至っては生きたままのこぎりで両断された。
大聖堂はモスクとされた。
伝統的な説明では、生き残った男性800人が強制的にイスラム教に改宗するように裁判にかけられたとしている。
家と家族を失った男性800人が連行され、イスラムか死かの選択を迫られ、死を選んだ。アントニオ・プリマルドという名の仕立屋は同胞に向かって、「兄弟たちよ。我らは町を守るために戦った。今度は我ら自身の魂のために戦おう」と宣言した。男たちは全員一致でその言葉に従い、キリストに命を捧げることを決めた。
トルコ人は、男たちはイスラム教に改宗すれば、奴隷として売られた女性や子供を返すという条件を出した。これを拒んだら、男たちの首を切るとも。男たちはこの申し出も拒んだ。
8月14日、聖母の被昇天の徹夜祷の日に、800人の男は繋がれて町の外に連れ出され、そこで首を切られ処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
⇒「殉教」であったことについては疑問符が付けられています(上掲)が、この頃のオスマントルコは、モンゴル軍といい勝負の残虐さですね。(太田)
オスマントルコは16世紀にはいるとシリアを攻略し、1517年にはエジプトのマムルーク朝を倒し<(注9)>て、世紀後半にはその勢力は最盛期に達することになった。・・・」(30~31)
(注9)「オスマン帝国とマムルーク朝の関係は、1453年のコンスタンティノープル陥落以来、対立的・・・だった。両国は香辛料貿易の支配を求めて争い、オスマン帝国は最終的にイスラム教の聖地であるメッカ、メディナ、エルサレムの支配権を握ろうと熱望していた。
以前の紛争(オスマン・マムルーク戦争 (1485年-1491年))は、膠着状態に陥って和平が結ばれていた。・・・
1516年から1517年のオスマン・マムルーク戦争 は、エジプトを本拠とするマムルーク朝<(のスルタン・セリム1世)>とオスマン帝国<(のアシュラフ・トゥーマーンバーイ)と>の間の2番目の大規模な戦争であり、マムルーク朝が滅亡し、オスマン帝国は東地中海沿岸一帯、エジプト、および紅海東岸を征服した。・・・
マムルーク軍はかなり伝統的で、主に弓矢を使う騎兵隊で構成されていた。<対する>オスマン帝国軍、特にイェニチェリは小銃を装備した当時の最先端だった。・・・
カイロで囚われた・・・カリフ<の>・・・ムタワッキル3世はコンスタンティノープルに連れて行かれ、軟禁されて後継者を決めることを許されないまま1543年に没し、アッバース朝は完全に滅亡した。後年になり、彼がセリム<1世>の後継者であるスレイマン1世にカリフ位を譲渡した事にされた 。これにより、スルタン=カリフ制が確立され、宗教的権威はカイロからオスマン帝国の玉座へと移ったとされた 。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89_(1516%E5%B9%B4-1517%E5%B9%B4)
⇒マムルークの軍事アナクロニズムには呆れます。(太田)
(続く)