太田述正コラム#15270(2025.10.24)
<清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』を読む(その6)>(2026.1.18公開)

 「・・・従来、ヨーロッパの歴史家の多くは、レパントの海戦<(注10)>の意義を高く評価し、これがトルコの脅威からヨーロッパを救った英雄的勝利であり、トルコ海軍は潰滅したと考える傾向にあったが、実際にはこれ以後両者とも手詰まりの状態になってしまったと言ったほうがよい。<(注11)>」(34)

 (注10)「1538年、プレヴェザ〈・・<そ>の近海では、紀元前31年にアクティウムの海戦が・・・<あっ>た。・・〉の海戦でオスマン帝国が宿敵のアンドレア・ドーリア軍[・・教皇パウルス3世、スペインのカルロス1世、ヴェネツィア共和国を中心とするキリスト教勢力・・]を撃破し地中海を制圧。スペイン勢力を地中海から締め出しイスラム教徒が覇権を確立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B6 (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B6%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6 ([]内)
 「1571年10月7日に起こった、ギリシャのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と、教皇領・スペイン帝国・ヴェネツィア共和国の連合海軍による海戦である。
 オスマン帝国の東地中海への進出に対してそれまで消極的な対応をしていたスペイン王国は、旧グラナダ王国での隠れイスラム教徒が生活条件の悪化により反乱を起こし(アルプハーラスの反乱)、オスマン帝国への支援を求めた事で自国の安全保障上看過できなくなった。そこで支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。また、教皇領の海軍にはスイス傭兵やフランスからの志願騎士も参加した。
 一方、元々海運国ではなかったオスマン側は北アフリカの海賊の頭目をアレクサンドリアやアルジェ、チュニスといった土地のパシャ(総督)に任命し、海戦の度に召集していた。・・・
 1570年にオスマン帝国のスルタンであるセリム2世がキプロス遠征を行い、ヴェネツィア共和国は同年にキプロス防衛のためにカトリック教国の艦隊を結集させようとしたが、スペインが消極的だったため、翌年8月にファマグスタが陥落し、キプロスはオスマン領になる。これに危機感を抱いたローマ教皇ピウス5世の呼びかけにスペインも応じ、カトリック諸国の連合軍「神聖同盟」が結成された。神聖同盟参加諸国の艦隊は9月にシチリアのメッシーナに集結、連合艦隊を組んで東進した。10月7日、オスマン帝国艦隊と接触した連合艦隊は決戦に及んだ。
 カトリック教国の連合艦隊(以下「連合艦隊」とする)は300隻からなり、・・・ドン・フアン・デ・アウストリア(スペイン王フェリペ2世の庶弟)によって指揮されていた。オスマン帝国の艦隊(以下「オスマン艦隊」とする)は285隻で、メジンザード・アリ・パシャが率いた。両軍とも、大多数をガレー船が占めていた。連合艦隊は、疾病の流行によって若干戦力が減少していた。オスマン艦隊は、疾病に加えて9月中旬の帰投予定が延長されるなど活動が長期化しており、必需品や武器弾薬の欠乏により戦力の減少と士気の低下が起きていた。・・・
 結果は、オスマン帝国の大敗に終わった。海戦に参加したおよそ285隻の内、210隻が拿捕され25隻が沈没、逃走が確認されただけでも25隻で母港に戻ってきたのは僅か4隻だけであった。3万人の多くが捕虜となって奴隷となるか処刑され、戦死または行方不明者も少なくなかった。オスマン帝国艦隊側のガレーの漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人が解放された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
 ドン・フアン・デ・アウストリア(Don Juan de Austria。1547~1578年)は、「神聖ローマ皇帝カール5世(兼スペイン王カルロス1世)の庶子で、・・・異母兄<の>フェリペ2世<によって>・・・王族として認知を受けた・・・が、「殿下」という呼称は認められなかった。貴族の私生児は聖職に就くのが一般的であったが、ドン・フアンはそれを拒み、軍人としての道を選んだ。・・・
 1576年よりネーデルラント総督を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2
 「バルバラ・ブロムベルク(Barbara Blomberg:1527<~>1597年・・・)は、神聖ローマ皇帝カール5世(兼スペイン王カルロス1世)の愛人で、ドン・フアン・デ・アウストリアの母。・・・<彼女は、>ドン・フアンは皇帝の息子でないと言い出<しているところ、実際、>・・・ドン・フアンはカール5世には似ておらず、結局のところ彼の父は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 (注11)’・・・the battle had no lasting impact on the Ottoman navy as the Ottomans rapidly rebuilt their fleet in under 6 months. The battle has long been compared to the Battle of Salamis, both for tactical parallels and for its crucial importance in the defense of Europe against imperial expansion. It was also of great symbolic importance in a period when Europe was torn by its own wars of religion following the Protestant Reformation. Pope Pius V instituted the feast of Our Lady of Victory, and Philip II of Spain used the victory to strengthen his position as the “Most Catholic King” and defender of Christendom against Muslim incursion. ・・・
 More than a military victory, Lepanto was a moral one. For decades, the Ottoman Turks had terrified Europe, and the victories of Suleiman the Magnificent caused Christian Europe serious concern. The defeat at Lepanto further exemplified the rapid deterioration of Ottoman might under Selim II, and Christians rejoiced at this setback for the Ottomans. The mystique of Ottoman power was tarnished significantly by this battle, and Christian Europe was heartened.・・・’
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lepanto

⇒「注11」に照らせば、レパントの海戦で「トルコ海軍は潰滅したと考える傾向にあった」筈がない一方、オスマントルコの無敗神話が雲散霧消したことが欧州側の心理に及ぼした影響は巨大だったのは確かであるところ、清水のここでの筆致は滑っています。(太田)

(続く)