太田述正コラム#15322(2025.11.19)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その19)>(2026.2.13公開)

「‘The most pious King Æthelstan<(注35)>’ is how he was described on the first page of the gospel book that was destroyed by fire in 1731.

 (注35)アゼルスタン/エセルスタン(894?~939年。アングロサクソン・・・王:925~927年。<イギリス>王:927~939年)。「彼はエドワード長兄王と・・・の息子・・・。・・・初代<イギリス>王、並びに『もっとも偉大なアングロサクソン・・・王』・・・。アゼルスタンは生涯を通じて結婚することなく息子もいなかったため、彼の没後は異母弟のエドマンドが王位を継承した。・・・
 王国統治のカギとなったのは国王主催の会議『ウィタン(賢人会議)』であった。アングロサクソンの諸王国は定められた首都が存在していなかった。それ故に国王の宮廷は王国内を巡回し、国王が催す評議会は移動先で開催されるのが通例であった。しかし、アゼルスタンはウェセックス国内にとどまり、配下の重要な諸侯たちを評議会に招集することで遠方に諸地域を統制した。エドワード長兄王が王国を拡大するまでは小規模で王室と近しい者だけで構成されていた評議会は、アゼルスタンの頃には司教・太守(エアルドルマン)・従士・地方の有力者、そして国王の権威の下に置かれた独立諸侯といった多くの人々が参加する大規模な議会へと変貌した。歴史家フランク・ステントン(・・・Frank Stenton)はアゼルスタンの評議会を「国民議会」と評しており、<イギリス>統一の障壁となっていた地方主義の打破に大いに貢献したと述べている。またジョン・マッディコット(John Maddicott)はステントンの考えより踏み込み、この評議会が<イギリス>政府において定められた役割を持つ中央集権的な議会の始まりであり、アゼルスタンは『意図なき真の<イギリス>議会の創始者』であると主張している。・・・
 アングロサクソン人は北ヨーロッパの中では行政文書を現地語で書き記した最初の民族であり、古英語で記録された法律文書の存在は7世紀初頭のケント王エゼルバートの頃にまでさかのぼる。アルフレッド大王の治世の9世紀末から編纂された法文書もまた古英語で書かれており、大王は配下の太守たちが現地語で書かれた法律を理解するよう期待していた。アルフレッドの法律はカール大帝の頃に編纂されたカロリング法の影響を受けており、特に反逆・治安維持・行政区画編成・神明裁判といった分野で強い影響を受けた。この法体系は10世紀中効力を維持し続け、アゼルスタンの法典はこれを土台としたうえで作成された。法典は国王の承認を必要としたが、これは一元的に定められた規約集というよりは地元レベルで適応・追加できるガイドラインのような扱いであったとされ、伝統的なアングロサクソン時代の口伝法もまた重要な法律として扱われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 The scale of his donation indicates that he was also abundantly rich: a ruler who could afford to reward his favourite subjects with almost embarrassing quantities of precious artefacts, as well as land and money.

⇒アゼルスタン、ひいてはイギリス、が、どうしてかくも豊かになったのか、を、Morrisが説明してくれていないことはまことに遺憾です。(太田)

 And, as his pronounced wealth implies, he was extremely powerful – arguably the most powerful of all the English kings before the Norman Conquest. Æthelstan was in Northumbria in 934 not as a foreign visitor but as its self-appointed ruler, having forcibly annexed the formerly independent kingdom seven years earlier. The army he was leading against the Scots was composed of men drawn from every region in southern Britain – not only English warriors from Wessex and Mercia, but also Danes who had settled in the eastern parts of the island, and Britons from the west.
 As the ruler of all these regions, Æthelstan has good claim to be considered the first king of England (although the word ‘England’ had yet to be invented) and even grander titles were touted at his court, where he was sometimes styled ‘king of all Britain’.・・・」(249)

⇒アルフレッド大王ではなく、アゼルスタンこそが真の初代イギリス王であり、事実上の英国王でもあった、とMorrisは主張しているわけです。(太田)

(続く)