太田述正コラム#15328(2025.11.22)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その22)>(2026.2.16公開)


[アルフレッド大王のひ孫までのイギリス諸王]

一 エドワード長兄王(アルフレッド大王の子)

 Edward the Elder(870年代~924年。アングロサクソン王:899~924年)。
 「イングランド南部のデーン人勢力を駆逐し南部を中心とする<イギリス>人の王国の基礎を築き上げた偉大な王」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E9%95%B7%E5%85%84%E7%8E%8B
https://www.gran-fenix.com/misc/royal_uk/index.htm

二 アゼルスタン(エドワード長兄王の子)

 Æðelstān(894?~939年。アングロサクソン王:924/925~927年。イギリス王:927~939年)。
 「927年、アゼルスタンは<イギリス>に残った最後のヴァイキングの王国:ヨールヴィークを征服し、全<イギリス>を支配する最初の王となった。934年にはスコットランドに侵攻してスコットランド王コンスタンティン2世を服従させた。しかし彼の支配をよく思わないスコットランド人・ヴァイキングはアゼルスタンに反旗を翻し、937年にヴァイキング・スコット人ら連合軍は<イギリス>に侵攻した。アゼルスタンはブルナンブルの戦いで彼らを迎え撃ち撃滅した。ブルナンブルでの大勝はアゼルスタンのブリテン諸島・大陸での覇権の獲得につながった。939年に彼が亡くなった後、ヨークは一時的にヴァイキングに奪い返されたものの、最終的には954年までに<イギリス>側が再奪還した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

三 エドマンド1世(アゼルスタンの異母弟)

  Edmund I(920/921~946年。イギリス王:939~946年)。
 「ダブリン王オラフ3世がノーサンブリアを征服し、<イギリス>中部地方に侵略してきたのだ。しかし942年にオラフ3世が死に、エドマンドは<イギリス>中部地方を再征服した。943年にはヨーク王オラフの後見人となり、944年にはノーサンブリアの再征服に成功した。同年、エドマンドと同盟を結ぶヨーク王オラフが王位を失い、アイルランドのダブリンに去った。オラフはダブリン王オラフ・クアランになり、引き続きエドマンドと同盟を保った。945年、エドマンドはストラトクライドを征服したが、領有権をスコットランド王マルカム1世に譲り、引き替えに軍事的な相互援助条約に署名した。こうしてエドマンドは国境の安全政策ならびにスコットランドとの平和的関係を確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%891%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

四 エドレッド(アゼルスタンとエドマンド1世の異母弟)

 Eadred(923?~955年。イギリス王(946~955年)。
 「兄たち同様、エドレッドもヴァイキングに対して軍事成功をおさめた。エドレッドは・・・体がとても弱かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89
 「エドレッド王は遺言と共に1600ポンドもの財を残しており、飢饉から民を救うため、あるいは異教徒の軍から平和を買うためにこの金を用いるよう遺して<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3

五 エドウィ(エドマンド1世の子)

 Eadwig(Edwig AllFair(端麗王)。940/941~959年。イギリス王:955~959年)。
 「エドウィ王は9世紀初頭以来、差し迫った外敵の侵入を受けなかった最初のイングランド王となった<。>・・・
 957年、王国は分割され、エドウィはテムズ川以南を保持し、弟エドガーが北方を治める王となった。この分割が治世当初から計画されていたのか、それともエドウィの敵対者による反乱の結果なのかについて、歴史家の意見は分かれている。」(上掲)

六 エドガー(エドウィの同母弟)

 Edgar(Edgar Peacemaker(平和王)。944?~975年。イギリス王:959~975年)。
 「エドガー王の治世で<も>ヴァイキングの襲撃が一度も起きなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

⇒「ヴァイキングの・・・襲撃<が>・・・950年半ばから980年代初頭までの小休止期間」に入るまでのアングロサクソン王/イギリス王が、外からの実存的軍事的脅威に晒され続けたことを我々は重く受け止める必要がある。
 もう一つ、驚くべきことは、その後、デーン人にイギリス王位を乗っ取られた後、ウェセックス朝が復活し、その最後の王となったエドワード懺悔王に至る最後の最後まで、歴代のウエセックス朝の諸王の生年が不確かであり続けたことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E6%AE%89%E6%95%99%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E6%87%BA%E6%82%94%E7%8E%8B
 このことを説明したものに私はまだ遭遇していないので、私の仮説とすら言えない憶測に過ぎないが、個人主義のアングロサクソン人にとっては、親にとって子供も殆ど赤の他人であってさしたる関心の対象ではなかった・・日本で室町時代以降は民間にも普及した元服のような通過儀礼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9C%8D
すら存在しなかったのではないか。初聖餐
https://witam-pl.com/2021/05/28/komunia/
を行ったとしてもその記録などはなされなかったのではないか・・のであって、王と雖も同じことであったと思われるところ、さすがに、ウィタンでは、王位継承者には原則として先王の子で、しかも、長男が指名されたことから、先王の子であるかどうか、また、子の間の長幼の別、くらいは分かっている必要があったけれど、それぞれが何歳であるかまで分かっている必要はなかった、ということであった可能性がある。
 (ウエセックス王家からイギリス王位を簒奪したところの、アングロサクソンと同じくゲルマン人、但し正真正銘のヴァイキング、であるデーン人、のスヴェン1世こそ生年ははっきりしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%8E%8B)
けれど、それを継いだ子のハーラル2世も、それを継いだその弟のクヌート1世も、生年は不詳である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AB2%E4%B8%96_(%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%8E%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ということから、やはり、個人主義はゲルマン人由来で、だからこそ、そうなのだということが言えそうだ。
 補足するが、いずれもゲルマン人であるところの、例えば、西ゴートのアラリック1世、テオドリック1世、トリスムンド、テオドリック2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF1%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF1%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF2%E4%B8%96

も、ことごとく、生年不詳だ。(太田)

(続く)