太田述正コラム#3122(2009.2.27)
<ハーバート・フーバー(続)>(2009.8.25公開)
1 始めに
 第31代米大統領のハーバート・フーバーについては、以前コラム#597~599でとりあげ、彼のイメージの改善に大いに努めたところですが、このたび、ウィリアム・E・ルークテンバーグ(William E. Leuchtenburg)により、「バランスのとれた」フーバー像を提示した’Herbert Hoover: The 31st President, 1929-1933’が上梓されたので、その内容の簡単な紹介をしたいと思います。
2 本の簡単な紹介
 「<第一次世界大戦中及びその戦後において、ロシアを含む欧州諸国の飢餓の回避に尽力し大成功を収めたフーバーだったが、その>彼にはよくない側面(darker qualities)もあった。例えば、彼は自分の意向に他人が全面的に従うことを求めた。
 他人の批判を受け入れることができないことから、彼は、多くの人々から法と彼の権限の境界をいつも超える「帝国建設者」であると見られていた。
 ウォーレン・G・ハーディング大統領の商務長官として、フーバーは「彼が発出する権限がなく、しかもそれが議会によって禁止されているにもかかわらず、アマを電波から閉め出し、彼自身にライセンスを発行する権限を与え、米国の法律及び国際法に反して電波の割り当てを行ったところの、諸布告」を発出した。
 また、彼の同僚たる閣議メンバー達が所管する省庁の部局を次々と商務省に移設することで、彼は米国の内政及び外交の両方で大きな影響力を持つに至ったが、同時に敵をたくさんつくることとなった。 
 1927年のミシシッピー州の洪水の際には、フーバーは、カルヴィン・クーリッジ大統領の商務長官だったが、「カネ集め運動をやって1,700万ドルも集め、600隻の大「艦隊」を結集してその上に150のテントを張り、各般の避難民の避難所とした。」
 この行動は広く賞賛を呼び、フーバーは簡単に第31代大統領に当選した。
 その任期の初期に、フーバーは、国立衛生研究所<の設立>、コロラド川におけるフーバー・ダムの建設、そして労働、銀行、刑事改革といった革新的諸措置で高い評価を得た。
 しかし、1929年10月24日に株式市場の暴落なる「黒い木曜日」が起こったことで、彼の米国史における不幸な位置が決まってしまうのだ。
 その直後の数ヶ月、フーバーは、連邦準備制度理事会に通貨供給を増加することと借金がし易くすることを頼み込んだ。
 しかし、彼が「繁栄はもうそこまでやってきている」と言い続けたことが、急速に増大する失業や銀行の破産の連続を前にして虚ろに響いてしまったのだ。
 ジャーナリストのウォルター・リップマン(Walter Lippmann)に言わせれば、フーバーは「不決断ですぐ震え上がってしまう」と見られるようになってしまう。
 フーバーは1930年に、広く批判されたところの保護主義的な「ホーレー・スムート関税法(Hawley-Smoot Tariff Act)」に署名したが、これは既に泥沼状態になっていた恐慌を一層深刻化させる役割を果たしてしまう。
 同じ年にローズベルトは、簡単にニューヨーク州の知事に再選され、彼は1932年<の大統領選>でフーバーへの挑戦者になると目された。
 ローズベルトの人気が高まりつつあったというのに、フーバーは、「再びの繁栄は公的財政出動によってはもたらされえない」と述べて、地方的及び私的解決法を好み、連邦による支援を頑なに拒み続けた。・・・
 フーバーのローズベルトに対する下卑た嫌悪は、1933年3月に緊急銀行法に署名した後、彼がぎごちなくこの法律を「戦慄すべき困難を惹起する<ことが必至であるところの>巨大な社会主義への動き」であるとこき下ろしたことによってより明白になった。フーバー自身がこの法律の起草の大部分を自分の責任において行ったというのに・・。
 しかし、ニューヨーク市のウォルドルフ・アストリア・ホテルのスイート・ルームに引退した後、フーバーの評判は、トルーマン大統領が彼を第二次世界大戦後の欧州の救援事業の長に任命したことによって高まることになる。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/02/26/herbert-hoover-the-31st-president-1929-1933/
(2月27日アクセス。以下同じ。)
 「・・・ルークテンバーグは、いかにフーバーが、彼の政府に対する不信と彼のボランティア主義があらゆる社会悪を解決するとの信念によって視野狭窄に陥っていたかを示している。・・・
 <彼の母校である>スタンフォード大学で<長く>隠退生活を送ったフーバーは、死に至るまでニューディールと大きな政府に対する声高な批判者であり続けた。・・・」
http://www.firesidelounge.info/0805069585/Herbert_Hoover_The_American_Presidents_Series_The_31st_President_1929-1933.shtml
 「・・・我々はフーバーが社会的手練(skills)がほとんどない男で、大恐慌の下で苦しんでいる人々に対する感情移入ができないテクノクラートであって、更に、彼を取り巻く世界が変わりつつあることを理解することができなかった男でもあることを示される。・・・ 
 ・・・<その彼が、>ハリー・トルーマン大統領によって氷室から外に出始める。
 トルーマンは1946年にこの元大統領にドイツに行って占領下にあるこの国の食糧事情を見極めるように頼んだ。
 このフーバーの視察の結果、いくつかの勧告が出、米国と英国の占領地域での学校給食計画が促進されることになった。・・・」
http://www.newmexicoguide.com/histbooks-2393-0805069585-Herbert_Hoover_The_American_Presidents_Series_The_31st_President_1929_1933.html
3 終わりに
 フーバーというのは、知れば知るほど興味が増す人物ですね。
 お時間あらば、ぜひコラム#597~599に(改めて)お目をお通しください。