太田述正コラム#3435(2009.8.2)
<欧州へのイスラム移民(その3)>(2009.9.7公開)
 「・・・もちろん、色んな意味で、イスラム教が欧州の人々にとって魅力的であっても決して不思議ではない。
 というのは、少なくともステレオタイプ化したバージョンで言えば、イスラム教徒達は、家族、名誉、そして自らの信条のために戦うことを<当然のことと>信じているからだ。
 それに何と言っても、彼等は団結している。・・・
 <欧州人の一部が行う>イスラム批判の背後には、深甚なるアンビバレントな気持ちがあるように思える。
 というのも、イスラム教徒達<の体現しているもの>は、実際のところ、欧州人達がそうなりたいところのものとほとんど合致しているからだ。・・・」(D)
 「・・・「欧州人達は、歴史から、偉大なる歴史(la grande histoire)から、血文字で書かれた歴史から、退出したいと思っているのだ」と1970年代にフランスの政治学者のレイモン・アロン(Raymond Aron<。1905~83年。フランスの哲学者・社会学者・政治学者>)は記した。・・・
 <例えば、>再度の大戦争(explosion)を回避しようと思ったら、欧州の各国はナショナリズムを放擲する以外になかったのだ。・・・
 「一方、欧州以外の<第三世界の>何億もの人々は、<そのような歴史>に加わりたいと願っているのだ」と。
 欧州人達自身がルールを書き換えつつあり、かつ諸価値を見直しつつあるというのに、新参者達が時々求められるところの、欧州の諸ルールや欧州の諸価値を抱懐すること、は容易なことではない。・・・
 当時、自分自身の人種問題に取り組んでいた米国によって促され、かつまた、共産主義の脅威に心を集中させていたということもあり、欧州人達は、個人主義、民主主義、自由、そして人権といった「欧州的諸価値」からなる規範(code)を定め(articulate)始めた。
 これらの諸価値は、一度たりとも厳密な形で定義されたことはない。
 とはいえ、これらの諸価値は、<欧州横断的な>社会的凝集性をもたらしたように見え、これらを抱懐したことと60年間にわたる平和とがたまたま重なり合った。・・・
 ・・・<ところが、>多くの移民達、そして移民達の多くの子供達と孫達は、屋根の上からパレスティナ国家、クルド人の母国(homeland)、あるいはイスラム原理主義(Islamist)アルジェリアへの願いを叫ぶことが義務であると考えた。
 彼等は、欧州人の理解の埒外にあるところの、文化的な夢、民族的(national)な夢、そして人種的栄光の夢さえ生かし続けた。・・・
 2005年のフランスの全土における貧民街暴動の数日後、大騒ぎになったフィンキールクロー(Finkielkraut)事件は、・・・一つの里程標となった。
 それは、「反人種主義者」陣営に怒りを買うには人種主義的なことを仄めかす必要さえないことを示した。
 哲学者のアラン・フィンキールクロー(Alain Finkielkraut<。1949年~。父親がユダヤ人。フランスのエコール・ポリテクニーク思想史教授>)は、イスラエルのハーレツ紙掲載のインタビューで、「叛乱」が社会的諸条件に対するものであったとの支配的な見方に異議を唱えた。
 フィンキールクローは、叛乱者達が自分達自身をそのようには叙述していないと指摘した。
 彼等の、フランス及びフランス的なものに対するラップの歌詞や彼等のスローガンは、自分達の行為を民族的・宗教的意味合いにおいて表現したというのだ。
 「ちょっとの間でいいから彼等が、例えばドイツのロストック(Rostock)の白人達であると想像してみよう」と述べた上で、彼は、「ただちにみんなが「これはファシズムだ、けしからん」と言い出したに違いない」と付け加えた。
 フィンキールクローはまた、現代における移民達に対するよそ者扱い(exclusion)が、植民地的状況の継続に他ならないとする議論の背後にある論理に疑問を投げかける。
 「そうかもしれない」と彼は言う。「でも、<彼等の出身地を>植民地支配していた頃の方がフランスにおけるアラブの労働者達を<フランス社会に>統合するのがずっと簡単だったことを忘れてはなるまい」と。・・・
 どうして「民族的(ethnic)プライド」はいいことで、「ナショナリズム」は病気なんだい、とも。・・・」(F)
 欧州文明は、プロト欧州時代のカトリック文明とフランス革命以降の民主主義独裁文明・・ナショナリズム/共産主義/ファシズム文明・・に大きく分かれますが、要するに全体主義文明であり、イスラム文明と極めて親和性が高い文明である、という私のかねてからの指摘を踏まえれば、以上の話はすとんと胸に落ちるはずです。
6 英国(イギリス)は欧州ではない
 「・・・コールドウェルは、英国について悲観的すぎる、例えば、インド亜大陸とアフリカ出身の人々が職域の梯子を登ることについて大いなる成功を収めてきたことを無視している。・・・」(C)
 例によって、韜晦しているけれど、この書評子のホンネを私が代弁すれば、彼は、米国人のコールドウェルはイギリスと欧州諸国とをいっしょくたに論じているけれど、そんなのナンセンスだって言いたいわけです。
 だって、イギリスにとって、個人主義、民主主義、自由、そして人権といった「欧州的諸価値」ならぬアングロサクソン的価値・・民主主義だけはちょっと違うがその点はさておき・・は金メッキどころか地金そのものなのであって、そんなイギリス人がイスラム的諸価値に接することでそれらの影響を受けるなんてことがあるはずがないからです。
7 米国人には英国(イギリス)も欧州も分からない
 「・・・<この本には、>米国の力の減衰が明らかになりつつあり新しい世界史の時代が始まりつつある中で、米国人の中の幾ばくかによく見られる被包囲感覚的範疇に属する考え方が露見している。」(D)
 この英国人の書評子↑は、英国は没落したけれど、その世界理解は的確でありつづけている一方、(私流に言えば、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラであるところの)米国は、一度も世界を的確に理解できないまま、ついに没落をはじめた、と冷笑しているのです。
 「・・・米国では「人種問題」と「移民問題」とが、必ずしも常に相互に関連しない場合もある。
 ところが欧州では、移民問題は即人種問題なのだ。
 だから、移民の成功と<移民による>「豊饒化(enrichment)」が受け入れ可能な唯一の意見になってしまった。
 移民が失敗であったことを認めることは自分自身が人種主義者であることが露見することである、ととらえられているわけだ。
 <換言すれば、>移民の問題点をあげることは人種主義的性向があるのを告白することである、とらえられいるわけだ。
 哲学者のピエールアンドレ・タグィエフ(Pierre-Andre Taguieff<1946年~。フランスの哲学者・歴史家・政治経済学者>)は、移民は常に「不可避でありかつ善である」とする<現在の欧州の>イデオロギーを叙述するために移民主義(immigrationisme)という言葉をつくった。
 欧州社会において次第に増大する「多様性」についての、そしてそれが良いことか悪いことかについての真の議論は、今やほとんど不可能になってしまっている。・・・」(F)
 これ↑は、コールドウェル自身による自分の本についての書評的なものなのですが、彼は何と非論理的なことを言うのか、と思います。
 まず、米国で「「人種問題」と「移民問題」とが、必ずしも常に相互に関連しない」のは、移民としてではなく、奴隷として強制的に連れてこられた黒人、という特殊かつ深刻な問題が米国にはあった・・今でもまだある・・というだけのことです。
 より問題なのは、米国にとってはもちろんのこと、英国にとっても移民は、おおむね「不可避でありかつ善である」のに、どうして欧州にとってはそうではないのか、への回答を示唆しつつも、ついにこれを正面から論じるのを彼が回避していることです。
 私に言わせれば、これは韜晦などではありません。
 米国がアングロサクソン文明と欧州文明のキメラであるがゆえに、コールドウェルが欧州文明の根底的批判をすることには、自己否定につながることから、無意識的にブレーキがかかってしまう、ということなのです。
 
(完)