太田述正コラム#3309(2009.6.1)
<芸術論(その3)>(2009.10.10公開)
 「<ダットンの第一の説明は、>「イリアス」から<米国の大人気TV番組であった>「ザ・ソプラノズ(The Sopranos)」に至るフィクション物語は、「低コスト、低リスクの疑似体験」を人々に提供するというものだ。・・・
 彼の第二の説明は、ニューメキシコ大学の進化心理学者であるジェフリー・ミラー(Geoffrey Miller)の学問成果に大いに拠っているのだが、性的淘汰論だ。
 ミラーのように、彼は芸術を、雄の孔雀の尾の知的バージョンたる誘惑の道具と見ている。
 詩を例にとれば、ダットンにとっては、それは潜在的な番の相手に見せびらかすことがその意義の大部分なのだ。
 (彼は「シラノ・ド・ベルジュラック」を詩的求愛の事例として挙げる。もっとも彼は、シラノがお目当ての女性を落とすことができなかったことを書き忘れている。シラノの流暢な遺伝子は子孫によって受け継がれることがなかったわけだ。)・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/08/AR2009010802865_pf.html上掲
 「・・・人間にとって、言語能力は生まれつきのものだ。子供が初めて学ぶ特定の言語は文化的なものだが・・。
 同じように生まれつきのもののように見えるのが、子供達の「ごっこ」能力、つまり、現実(お茶はいつも下に注がれるのであって上には注がれない)に幻想(見えない急須と茶碗)が混ざった世界をでっちあげるとともに、この世界を律するルールを<現実世界とは>別個で自己完結的なものと<認識>する能力だ。
 大部分の子供達にとって、(2歳くらいから始まるところの)やはり生まれつきのものが、他人が自分自身と似通った内面生活を持っているということを認識すると同時に、それが自分自身のものとは異なったユニークなものであるということを認識する能力だ。
 だからこそ、恐らくは最も古い芸術の形態は物語ることなのだろう。
 たき火の周りで語られた物語として始まったものが、やがて、より精緻な口伝伝説物語となり、(「イリアス」や「オデュッセイア」のような)書かれた物語、そして演劇、小説、映画、更には物語に立脚したビデオゲームへと発展して行ったのだ。
 ここで重要なことは、これらの(史実の、または部分的に史実の、もしくは純粋なフィクションの)物語が我々の生存を助けたことだ。・・・
 仮に、我々がかつて物語の中で一度聞いたことがあるのと似た状況に遭遇した場合、我々はその状況に成功裏に対処して生き残ることによって「物語る遺伝子」を子孫に受け継がせる可能性がずっと大きくなるだろう。
 また、物語は、様々な種類の人々とその人々の脳がどんな風に働くかの事例も提供してくれる。
 これは、我々が社会状況の中で他の人々とつきあう上で助けになる。
 想像的に物語ることは、人間の知性に組み込まれている生存本能の一つなのだ。
 ところで、現実の人間の言語は、これらの物語や日常的コミュニケーションに必要なものよりもはるかに精緻にできている。
 人間は1千語より少ない言葉でやっていけるというのに、どうして人間の語彙はどの言語でも何万語に及んでいるのだろうか。
 我々の言語は、かくも多くの語彙を持っているため、それが何を意味するのかを教えてくれる本と同義語を教えてくれる本とを必要とするくらいだ。
 これは、雄の孔雀の尾の彩り鮮やかな羽と同じく、天然資源の無駄遣いではないのか。
 この両者を比較することが手がかりを与えてくれる。
 すなわち、ダットンは、かかる言語の浪費(extravagance)は、ダーウィンによる進化の分析の<一方である自然(生存=生き残り)淘汰と並ぶ>もう片一方である性的淘汰の現れであると主張する。
 人間は、番の相手を、部分的には肉体的外見(それはおおむね健康状態の指標だ)に依拠し、また、部分的には知力にも依拠して選択するが、知力の良い指標は、言語に関する能力なのだ。
 ダーウィンは、’The Descent of Man’の中で、人間の脳は性的装飾品であり、言語は脳の彩り鮮やかな羽を見せびらかすためのものである、と喝破した。・・・
 詩と歌の第一番目の主題は、現在においても常に愛であり続けているところから、詩と歌が求愛から生まれたことは明白だ。
 こうして、「肉体的に最強の者ではなく最も利口で機知に富んで賢明な者が生き残る」ことになったのだ。・・・」
http://www.charlespetzold.com/blog/2009/01/Reading-Denis-Dutton-The-Art-Instinct.html
3 終わりに
 ダーウィンの言う自然(生存=生き残り)淘汰も結局は、やはりダーウィンの言うところの、性的淘汰によって、理想的な番の相手を確保して自分の遺伝子をできるだけ多くの子孫に受け継がせて行くためのものであることを考えれば、ダーウィンは、性的淘汰一元論に立っていた、という解釈もできるのかもしれません。
 そうなると、ダットンの芸術論についても、現代芸術を除く芸術は、ことごとく性的淘汰で自分を優位に立たしめるための雄の孔雀の尾的なもの、すなわち手段である、という形に単純化できるのかもしれません。
 しかし、仮にそうだとしても、それでは一体全体現代芸術とは何なのだ、という難問が残ります。
 この難問を解くにはどうしたらよいのか、私の仮説を、6日のオフ会の際にお示しするので、出席者の皆さんから、忌憚のないご意見を承りたいと思っています。
(完)