太田述正コラム#3329(2009.6.11)
<革命家トマス・ペイン(その2)>(2009.10.28公開)
 「<ペインの著書である>『理性の時代』(1794~95年)は、キリスト教に対する真正面からの攻撃だった。・・・
 ペインは、ジェファーソン同様、啓蒙主義時代の産物であり、中世の国王達や僧侶達にハイジャックされたところの、完全な自由と平等の自然秩序が存在することを心から信じ込んでいた。
 ディドロ(<Denis> Diderot<。1713~84年。フランスの哲学者。いわゆる百科全書の編纂者として有名>)が言ったように、最後の国王が最後の僧侶<から掻き出されたところ>の内蔵とともに首を絞められさえすれば、この自然秩序が自然に回復されると。
 マルクスによる後日における同様の幻想の描出は、国家が萎えて行って消え去り、調和的で無階級の社会が出現するというものだった。
 ダーウィンの自然(nature)についての記述やフロイドの人間の本性(nature)、第一次世界大戦のばかげた殺戮、それに20世紀のジェノサイドの諸悲劇に照らすと、ペインの楽観的な諸仮定は、極端にナイーブであるように見える。・・・」(ニューヨークタイムス上掲)
 「・・・一方では、普通の人々(common man)の権利、貢献、及び責任、という、ペイン、ジェファーソン、マディソン、社会主義者達、そして今日のリベラルによって推進されているところのアプローチがある。
 そしてもう一方ではそれに反対であるところの、エドマンド・バーク、ジョン・アダムス、及びアレキサンダー・ハミルトンの類が好んでいる、より伝統的、貴族的、階統的、財産権スタイルがある。
 米国史の200年間を通じた、前者に対するペインの影響と後者によるペインに対する攻撃は、瞠目するほど何度も繰り返された。・・・」
http://www.thomaspainefriends.org/nelms-timothy_review-of-harvey-kaye.htm
 「・・・ペイン<は>・・・不公正に、そしてしばしば悪意をもって米建国の父の一人としての地位からはずされてきた。もっともそれには相応の理由があった。・・・
 <というのも、>ペインは、『人間の権利』の中で、経済的不平等を相殺するための公的福祉制度を提案したし、『農業的正義(Agrarian Justice)』の中では、21歳の誕生日にすべての人に一定のかなりの額のカネを支払い、もう一度こういった額のカネを50歳以上のすべての人に毎年支払うことを提案したのだから。・・・
 ペインは、英国の私掠船の乗組員だったことがある。・・・
 ペインは、米反奴隷制協会(American Anti-Slavery Society)の創設会員の一人で<も>あった。・・・」
http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444
 最後に、ペインの言をいくつかご紹介しておきましょう。
 「我々は、世界をもう一度最初からやり直す力を持っている。」
 「新しい世界の生誕は近い(at hand)。」
 「我々は実験に携わっている人々なのだ。」
 「これは革命の時代だ。あらゆることが求められてしかるべきだ。」
http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444上掲
 英文ウィキペディアのトマス・ペインの項
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Paine
(6月11日アクセス)からもピックアップしておきましょう。
 「フランス語がしゃべれなかったのに、ペインはフランス国民議会(French National Convention)議員に選出された。
 ジロンド党(Girondists)は彼を仲間とみなした、よって、山岳党(Montagnards)、とりわけロベスピエールは、彼を敵とみなした。
 <ペインは、フランス王制の廃止には賛成したが、ルイ16世の処刑には反対し、ルイがその独立を助けたところの米国に彼を亡命させるよう主張したが、結局ルイは処刑された。>
 1793年12月にペインは逮捕され、パリで投獄されるが、<山岳党の失権に伴い、>1794年に釈放される。・・・
 <議員に復職したペインは、普通選挙の廃止に反対票を投じたが、結局普通選挙は廃止された。>
 フランスで、彼は、『農業的正義』(1795年)というパンフレットを著し、・・・最低所得を保障するという概念を導入した。
 ナポレオン時代の初期をペインは引き続きフランスで過ごした。<ペインはナポレオンに英国侵攻作戦について献策した。>しかし、<次第に独裁的になって行ったことから、>ナポレオンを非難し、「史上最も完璧な山師」と呼んだ。
 ジェファーソン大統領の招待で、1802年に彼は米国に戻った。・・・
 リンカーンの弁護士事務所のパートナーであったウィリアム・ハーンドン(William Herndon)は、リンカーンがペインの<既存宗教を排する>自然宗教(deism)を擁護する文書を書いたので、友人のサミュエル・ヒル(Samuel Hill)が、リンカーンの政治的キャリアを守るためにその文書を焼き捨てた、と伝えている。
 また、トーマス・エジソンは、ペインについて、
「私はいつもペインが全米国人のうちの最も偉大な人物の一人だとみなしてきた。
 この共和国は、彼ほど健全な知性の人を持ったことはない…。
 私が少年時代にペインの諸著作に出会ったことは幸運だった…。
 <ペインのような>偉大な人物の政治や神学の問題に関する考え方について読むことは、私の目を啓いてくれた。・・・」
と述べている。
 更に、ペインの言葉はバラク・オバマ大統領によってその就任演説で引用された。
 ”Let it be told to the future world that in the depth of winter, when nothing but hope and virtue could survive, that the city and the country, alarmed at one common danger, came forth to meet it.”
 <BBCが2002年に行った人気投票で、ペインは100人の最も偉大な英国人のうちで34位に入った。>」
3 終わりに
 ペインの『コモンセンス』を昔読んだことがある私ですが、彼がこんなに面白い人物だとは知りませんでした。
 ただし、ペインが抱いていた理想は、古よりイギリス人が共有してきた理想であり、ただ、彼がその理想を即時に実現しようとしたこと、とりわけ民主主義を即時実現すべきだと考えたこと(だけ)が、非典型的だったということではないでしょうか。
 このような意味でペインは革命家であったことから、英国にはもちろんのこと、米国にも、そしてフランスにも彼は安住の地を見いだすことはできませんでした。
 ちょっとした手違いもあり、ペインの遺体(遺骨)は行方知れずであり、彼には正式な墓もありません。(ウィキペディア上掲)
 彼の生誕の地ゼットフォードが、ローマが大ブリテン島の大部分を支配していた紀元1世紀に、イケニ(Iceni)部族等を率いて反ローマの大反乱を起こした女王ブーディカ(Boudica)の本拠であったというのは面白いですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thetford
http://en.wikipedia.org/wiki/Boudica 
 ペインの反骨精神は、ブーディカのそれに相通じるものがあるような気がします。
(完)