太田述正コラム#3381(2009.7.7)
<トロツキーとその最期(その3)>(2009.12.3公開)
6 暗殺
 「・・・3ヶ月後、スターリンについて、共産党の「傑出した凡人」にして「革命の墓堀人」と形容した男は死んだ。
 トロツキーに対してフランク・ジャクソン(Frank Jacson)と名乗った・・ベルギー生まれのジャック・モルナール(Jacques Mornard)と名乗ったと(B)にはある(太田)・・メルカデル(Mercader)は、<著者によると、>NKVDの政治テロリズムの訓練場であったスペイン内戦の中でリクルートされたものだ。この内戦において、メルカデルは、フランコに敵対して戦った。
 スペイン内戦の後、彼はパリに送られ、そこでロシアから移民してきた人物を父親に持つシルヴィア・アゲロフ(Sylvia Ageloff)<という女性>に出会う。
 トロツキーは、そのタイピスト兼通訳兼調査係であったところの、シルヴィアの姉妹たるルース(Ruth)が好きだった。
 メルカデルは、この関係を、トロツキーに近づき、それを彼の最終的な運命的な訪問とするためにうまく用いた。<トロツキーに面会する>名目は、メルカデルが書き、出版したいと考えているトロツキー主義に関する論文の修正について議論するため、ということにした。・・・」(C)
 
 「・・・<実は、その少し前にもこういうことがあった。>
 ・・・暗殺の最初の試みがなされたのは1940年の5月24日の朝だった。
 20人の武装したスターリン主義者達の集団がメキシコシティー郊外のトロツキーの家を襲撃し、護衛達を武装解除した後、20分間にわたってこの家に機関銃を撃ち込み、それから数発の焼夷弾を投げ込んだ。
 トロツキーと彼の妻のナターリャは、ベッドの下に潜り込んで生き延びた。
 眠っていた彼等の孫の男の子のマットレスを銃弾が突き抜けたけど、その子はかすり傷を負っただけだった。
 奇跡的に、トロツキーも、飛散したガラスによって顔にかすり傷ができただけだった。・・・
 <著者に言わせると、>この5月24日の襲撃の目的は、単に殺害ではなく放火でもあった。
 弾丸はトロツキーのためのものであったのに対し、焼夷弾は彼の個人的な書類のためのものだった。
 書類には、1937~38年の大粛清(Great Terror)に関する<スターリンにとって>不利な主張が記されていた。トロツキーの思想ほどでなくともソヴィエト連邦を脅かした人間は、スターリンが布告したように、消されなければならなかったのだ。
 約200万人の「人民の敵」がこの期間中に殺された。・・・」(B)
 「・・・トロツキーの取り巻きの中に潜入して彼を殺害した、スペイン生まれのラモン(Ramon)・メルカデルは、バルセロナのリッツ・ホテルでシェフとして働いていたことがある。
 ・・・NKVD<は、>ブルックリンのソーシャル・ワーカーで米国のトロツキー主義運動に関わるようになったシルヴィア・アゲロフとロマンティックな時を過ごさせることによって、メルカデルをトロツキーの取り巻きの中に潜入させるという計画を立てた・・・。
 アゲロフを仲介者として、メルカデルはメキシコのトロツキーの家のスタッフに取り入り、こうして彼の標的に会ったのだ。
 ・・・1940年8月20日、メルカデルはこのメキシコの家に、護衛達から慇懃な歓迎の挨拶を受けて、まっすぐ正面のドアから中に入った。・・・」(E)
 「・・・メルカデル・・・がトロツキーに自分が書いた政治的論考のいくつかを読んで欲しいと申し出た時、トロツキーは書斎で仕事をしていた。 
 トロツキーは頷き、それに向けて背を屈めた時、<(その日はすばらしい晴天だったが)レインコートの下から小さなアイスピックを取り出し、メルカデルは目をつぶって(D)>アイスピックでトロツキーの前頭部を<たったの1回>ぶん殴<っ>た。
 彼は痛みに呻きながらかろうじて立ち上がり、攻撃者をかわしてから倒れた。
 護衛達が大慌てで入ってきてこの侵入者を殴打した。
 ・・・病院にただちに運ばれたが、トロツキーは翌日死亡した。・・・」(B)
 「・・・トロツキーは、所蔵していた大量の文書を1940年にハーバード大学に6,000ドルで売っている。
 これは、彼が金欠病にかかっていたためだが、スターリンが、トロツキーを革命期の種々の写真から削除したように、彼の記録を抹殺するために放火魔を送り込んでこないとも限らないと思っていたからでもある。
 彼の文書が確かに届いたという知らせが到着した日は、皮肉なことに、彼の暗殺者がトロツキー自身を「削除」した日だった。・・・」(D)
 「・・・20年間を監獄で過ごした後、メルカデルは<1960年に>釈放されたが、彼は、ソ連に対する功績に対し、<フルシチョフから>ソ連邦英雄勲章を授けられた。・・・」(E)
7 終章:トロツキー論
 「・・・トロツキーの亡命後、<やがて>米国と欧州の彼の弟子達の大部分は、社会主義の必然性について、彼と見解を異にするに至った・・・。
 <しかし、>トロツキーは・・・自分の考えに固執し続けた。・・・」(C)
 「・・・トロツキーの家(最初はリヴェラの青の家、しかし仲違いをした後は何丁目かだけ離れた第二の家)の周りの精緻な警備網<は、>ゆっくりだが次第に整備されて行った・・・。
 しかし、トロツキーは、隠遁者のように生きることは好まなかった。
 彼は、サボテンを集め、裏庭でウサギと鶏の世話をし、妻と口論をし、友人がほとんどできないところの、かつまた友人をしばしば怒らせたところの、熱心な勧告と癇癪の混ざり合いだらけの独特な手紙を書いた。
 彼は複雑な人間だった。
 清教徒的な外見を持ち、彼の家族さえ含む、周りの人々の犠牲の下にその大儀に絶対的に身を捧げた。
 家族に対しては、彼等を明らかに深く愛していたにもかかわらず、全く顧慮を払わないのを常としたように見える。
 彼は疑い深く、知的に傲慢であり、論争的で、怒りっぽかったが、それでも深く愛された。
 このような肖像は、結局のところ愛情深い人物を指し示しているように見えるかもしれない。
 しかし、ここで重要なことは、トロツキーは、マルキストのユートピアの行く手に立ちはだかる者を殺すことに何の良心の呵責も覚えたことがなかった人物だということだ。
 彼の人道に関する感覚の欠如が明白に現れているのが、その亡命生活の最後の数ヶ月だ。
 彼は、同志達の大部分の見解に逆らって、フィンランドの資本家達と搾取者達を追い詰めるためにはソ連のフィンランドに対する戦争は良いことだと言い続けた。
 だから、自分がスターリン主義者のテロ行為によって死んだことを彼は驚きはしなかっただろう。
 ボルシェヴィキの正義と不正義は、革命の道に立ちふさがるものは何であれ破壊する、というものだったからだ。
 <この本を読むと、>どんな読者であれ、共産主義者の将来ビジョンが感染していたところの、ナイーブな楽観主義と道徳的利己主義の混ぜ物について瞠目せざるをえないだろう。
 トロツキーは、その「歴史のゴミ箱」という隠喩においても有名だが、悲しいことに、彼自身も恐らくはゴミとなってしまったのではないか。」(D)
 「・・・1982年の英国議会における演説で、<時の米大統領の>ロナルド・レーガンは、トロツキーの劇的な言葉をトロツキーに対して用いた。彼は、「自由と民主主義の行進は、マルクスレーニン主義を「歴史の灰の一山(ash heap)」の上に置き去りにすることができるはずだ」と宣言したのだ。
 <そして、そのとおりになった。>・・・」(E)
8 終わりに
 20世紀は、狂気が全世界を覆った時代でした。
 それがどうしてかについての私の仮説は、ここでは繰り返しません。
 いずれにせよ、間違いなく、その主役はスターリンと毛沢東とヒットラーの3人であり、この、スターリンは青年期には本格的な詩人であったこと、毛沢東は生涯詩人気取りで通したこと、そしてヒットラーは挫折した画家だったこと、は興味深いものがあります。
 一方脇役を演じた者は数え切れないほどいますが、トロツキーは、その中ではムッソリーニや蒋介石等と並ぶ大物の部類に属します。
 トロツキーも蒋介石もムッソリーニも、芸術とはほとんど縁がなかったため(?)か、主役の3人に比べれば、行った悪行もたかが知れています。
 ところで、以上の6人は、いずれも、多かれ少なかれ、共産主義(マルクス・レーニン主義)の影響を受けています。
 (ムッソリーニについては、以下を参照のこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/Benito_Mussolini
 共産主義は、狂気の時代たる20世紀を象徴するイデオロギーであり、レーニンは、まさにこの狂気のイデオロギーの教祖であると言えるでしょう。
 こんな狂気の時代に遭遇した上に、愚昧な大国であった米国に翻弄され、悲劇的な敗戦を迎えて帝国解体の憂き目にあった戦前の日本の不幸を改めて思わざるをえません。
(完)