太田述正コラム#3549(2009.9.27)
<チャールス2世と王政復古>(2010.2.6公開)
1 始めに
 イギリス内戦(いわゆる清教徒革命)と名誉革命に挟まれた時代において、王政復古、でイギリス王(兼スコットランド・ウェールズ王)となったチャールス2世(1830~85年)を、これまで正面からとりあげたことがありませんでしたが、このたび、イギリスのジェニー・ウグロウ(Jenny Uglow)女史が ‘A Gambling Man: Charles II and the Restoration’ を上梓したので、その書評2篇を手がかりに彼の人間像と当時のイギリスに迫ってみましょう。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II_of_England
(9月27日アクセス)
B:http://www.guardian.co.uk/books/2009/sep/26/gambling-man-jenny-uglow-review
(9月26日アクセス)
C:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article6848012.ece?print=yes&randnum=1254036970937
(9月27日アクセス)
2 チャールス2世と王政復古
 「・・・<王政復古の当時は、>すべてがチャールス・スチュアート(Charles Stuart)を中心に回っていた。
 <陽気な王様(Merrie Monarch)と呼ばれた(A)>彼は、めずらしいほど<人と>垣根を設けない国王であり、劇場に現れたり、ロンドンの街頭を乗馬で移動したり、知人達とおしゃべりをするために立ち止まったりした。
 彼がしばしば、その廷臣達や顧問達とセント・ジェームス公園を短い散歩をしている姿を見ることができた。
 彼は波止場に海軍の状況を視察するために行ったり、自分で自分のヨットに乗ってテームズ川を下ったりした。
 彼はホワイトホール宮殿の一部を一般人に開放した。
 彼の宮廷は、洗練さと儀典が重苦しい雰囲気を醸し出していた、彼の父親<のチャールス1世>の宮廷とは全く様変わりだった。・・・
 彼が亡命先から戻ってくる前、彼は、宗教の違いが国家の安定を脅かさない限り、「やわな良心を抱く人々に自由(liberty to tender consciences)」を約束した。
 彼は英国教反対者(dissenters)に、そして多分カトリック教徒に対してさえ、本当に寛容でありたいと欲していたように見えるが、彼が協働しなければならなかったイギリス議会は圧倒的に国教徒が多く、人口のかなり大きな少数派であったところの、長老派(Presbyterians)、洗礼派(Baptists)、クエーカー、そして他の非国教徒(nonconformists)に対して次第に敵対的になって行った。
 議会が、チャールスが、国教反対者に対するもっと過酷な措置に同意しないと、彼にカネを与える議決をしない場合は、彼はそれに屈した。
 内戦の記憶がまだ真新しかったため、多くの議員が、・・・「国教反対者が叛徒でないことはありえない」との見解を共有していた。
 1664年までには、事実上、彼等に対する恐怖政治が行われるに至っており、彼等の市民たる権利は剥奪され、説教は禁止され、大規模な逮捕や投獄がなされるようになっていた。
 寛容な国家的教会にみんなが集う、新しい自由なイギリスという夢は潰え去った。
 その代わり、決して癒されることのない様々な反目が生まれた。
 チャールス個人にとって宗教は気ままなもののように見えたが、彼は、しばしばカトリシズムに対して同情的であるような兆候を示した。
 1670年には、彼は彼の従兄弟の<フランス国王>ルイ14世との間で秘密のドーバー条約(Treaty of Dover)を締結した。
 それは、多額の金をもらう見返りに、チャールスは適当な時期に自分がカトリック教徒であることを宣言するという合意付きだった。
 フランスのカネは支払われたが、適当な時は来ず、チャールスは結局、彼の改宗を臨終の時にまで延ばした。・・・」(B)
 「・・・9年間の亡命の後、1660年5月に30歳のチャールス2世がイギリスに戻る(注1)と、彼の大ばくちが始まった。
 (注1)「クロムウェルが1658年に死んだ後、チャールスが王位に復帰する可能性は当初あまりないと考えられていた。護国卿(Lord Protector)を、クロムウェルの息子のリチャードが継いだからだ。しかし、この新護国卿は、議会にも新模範軍(New Model Army)にも権力基盤を持たなかったので、1659年に辞任を余儀なくされ、護国卿制も廃止された。次いで起こった内戦と軍事的騒擾の中、スコットランド総督のジョージ・モンク(George Monck)がイギリスが無政府状態に陥ることを心配し、彼とその軍がロンドンのシティーへ進軍し、・・・ほとんど20年ぶりに総選挙が行われた。・・・王党派(Royalists)の候補者と有権者に対する規制(が行われたものの、それ)は諸処で無視され、政治的には王党派と議会派がほぼ拮抗し、宗教的には国教会信徒(Anglicans)と長老派信徒(Presbyterians)がほぼ拮抗する議会が結果として出現した。・・・このイギリス議会は、チャールスを国王とする決議を採択し、彼に帰国を促した。・・・チャールスは、・・・ロンドンに<1660年>5月29日に到着した(この日はチャールスの30歳の誕生日だったが、王政復古の期日とされている)。」(A)(太田)
 彼の最後の大ばくちが1670年の、ジェニー・ウグロウ言うところの、「彼の治世における最大のばくち」たる交渉だった。
 ・・・ドーバー条約・・・だ。・・・
 チャールスは、彼が12歳の時に子供時代が内戦の勃発によって粉砕されてからというもの、戦い続けた。
 彼の青春時代は、イギリス、スコットランド、そして欧州を、時には召使いに扮し、時には浮浪者を装い、ある時は追跡者達から逃れるために樫の木の中に隠れたり、かわしたり逃げたりすることに費やされた。・・・
 時々はビギナーズラックもあった。
 ロンドンが大災厄(great plague<=ペスト禍>)に見舞われた1665年には、毎週何千もの人々が死んだが、王宮はこの災厄を免れた。
 翌年、今度は大火が・・・起こり、13,000の家と89の教会を含む、シティーの80%が灰燼に帰した。
 今回も、風向きが変わったおかげで、ホワイトホール宮殿に火は及ばなかった。
 <もっとも、そういつもうまくは行かなかった。>
 ・・・オランダが、1667年6月の朝、<テームズ川を遡って、>警戒を怠っていた・・・英海軍を急襲し、13の艦艇に火を放ち、<旗艦の>ロイヤル・チャールスを曳航して行った時、国王は他に手段がなく・・・<オランダとブレダ条約(Treaty of Breda)で>和議を結ぶほかなかった(注2)。
 (注2)「第一次英蘭戦争(1652~54年)は、オランダの通商をイギリスの船に独占権を与えることで害するところの、1650年の航海諸法の制定が引き起こしたのに対し、第二次英蘭戦争(1665~67年)は、イギリスがオランダのアフリカと北米における領地を奪おうとして起こった。」(A)(太田)
 この10年間を扱っているピープス(<Samuel >Pepys<。1633~1703年。海軍省高官・下院議員>)による日記には、このエピソードが生んだ「極めて恐ろしい恐怖の汚臭」が記されている。
 「シティー全体で人々がこんなに惨めな思いをしたことはない。もはや、イギリス王国全体が覆水盆に返らずだ」と。
 チャールスがあえて、<大ばくちをうつ形で抵抗しなかったこともある。>
 <議会がいわゆる>クラレンドン諸法(Clarendon Code)<を成立させると、>彼は、新しく形成されたクエーカーのような非国教徒のセクトの信徒達を公職に就けなくし、<国教会の>共通祈祷書(Book of Common Prayer)を押しつけ、5人以上の集団による集会を非合法化した。・・・
 <他方、>彼の愛人達と王妃(注3)を同じ宮殿に住まわせるという大ばくちはうまくいった。・・・」(C)
 (注3)「1662年5月にチャールスは<ポルトガルの>ブラガンザのキャサリン(Catherine of Braganza)と結婚した。・・・キャサリンの持参金の一環として、タンジール(Tngier)とボンベイ(Bombay)が英国の支配下に置かれた。後者は、インドにおける大英帝国の発展に主要な永続的な影響を与えた。」(A)(太田)
3 終わりに
 「極左」(のプロテスタント)、及び「極右」(のカトリック)を排撃すべきか、それとも「極右」も「極左」も包摂すべきか、というのは、自由主義国家におけるアポリアです。 
 チャールスは、個人的には包摂論であったけれど、議会で多数を占める排撃論に心ならずも従わざるを得なかったというわけです。
 
 チャールスは、王妃との間に子供ができなかったため、カトリック教徒たる弟のジェームス(2世)がその後を継ぐことになります。(A)
 ジェームスの即位に反対する、「極右」排撃論の議員達はホイッグ(Whig)、賛成する、「極右」包摂論の議員達はトーリー(Tory)と呼ばれるようになり、これが二大政党制へと発展して行きます。(A)
 当時、トーリーは彼を慈悲深い国王、ホイッグは彼をひどい専制君主と評しましたが、現在では、良い国王であったという評価が定着しています。(A)
 イギリスの激動期を乗り切り、まがりなりにも、現在まで絶えることなく続くイギリスの王制のいわば礎を築いたのですから、彼をそれなりに評価してしかるべきでしょう。